詳説 世界史研究 第15章 第三世界の台頭と米ソの歩み寄り

『アジア・アフリカの連帯と平和五原則』

平和五原則とは、1. 領土・主権の尊重、2. 対外不侵略、3. 内政不干渉、4. 平等互恵、5. 平和的共存をいう。インド・パキスタン・セイロン・インドネシアビルマコロンボ=グループとよばれる国々のよびかけで、1955年にインドネシアのバンドンで第1回アジア=アフリカ会議が開催され、この五原則は、さらに「平和十原則」に発展した。そこでは、反帝国主義・反植民地主義を柱とした連帯が謳われた。米ソの対立がさらに深まるなかで、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国が第三世界として連携し、積極的中立の立場をとることの意味が強く認識され、61年には、ユーゴスラヴィアベオグラードに25カ国が参加し、第1回非同盟諸国首脳会議が開催された。(p.509)

 

『連帯の崩壊』

59年にチベットのラサで起きた反乱とダライ=ラマ14世  (任1940〜)のインドへの亡命は、平和五原則を破ってのインド軍の中国領進入を導き、両国間の緊張を高めた。62年には大規模な軍事衝突が生じ、対立は決定的なものとなった。連帯の崩壊は、それまでの有力な柱であった指導者に大きな動きがあったことによって、さらに加速した。インドネシアスカルノ大統領は、65年九・三〇事件で失権した。エジプトのナセル大統領(任1956〜70)は、スエズ運河国有化によるスエズ戦争第2次中東戦争、1956〜57)をへて大きくソ連に接近した。(p.509)

 

『アフリカ諸国の独立と苦悩』

長くフランスが支配してきた北アフリカでは、リビア(1951)、モロッコチュニジア(1956)があいついで独立し、イギリスの勢力圏でエジプトとの関係が深かったスーダンも1956年に単独で独立した。しかし、100万ものフランス人入植者が住むアルジェリアでは、戦後もアルジェリア人の政治的な権利は認められず、独立を求めるアルジェリア人は民族解放戦線(FLN)を結成して54年武力闘争に決起し、フランス軍・入植者の武装勢力を相手に7年を超える独立戦争を戦い、62年ようやく独立を達成した。(p.509)

 

サハラ以南でもパン=アフリカ主義の理想を掲げたエンクルマ(ンクルマ、任1960〜66)が、57年イギリス領からガーナの独立を導き、翌年彼が全アフリカ人民会議を主催して反植民地主義とアフリカの統一をよびかけた後、独立運動の波はさらに広がった。60年には一挙に17の独立国家が誕生し、この年は「アフリカの年」とよばれる。(p.509)

 

63年にはエチオピア皇帝ハイレ=セラシエ1世(任1930〜74)の尽力によって、アジスアベバにアフリカ30カ国の首脳が参集してアフリカ統一機構(OAU)が結成され、アフリカ諸国の連帯と発展、植民地主義の一掃をめざすことになった。(p.510)

 

独立直後のコンゴでは、多民族構成のうえに旧宗主国のベルギーが銅・ウラン・コバルトなどの鉱物資源の豊かなカタンガ州の分離独立をはかって介入したことから激しい内戦が起こった(コンゴ動乱、1960〜65)。(p.510)

 

南アフリカ共和国では、人口では少数の白人支配を維持するために極端な人種差別・隔離政策が強化された。国民に白人やアフリカ人などの人種登録を強制して人種間の結婚を禁止し、居住地域も制限するアパルトヘイト(隔離)政策である。(p.510)

 

ラテンアメリカ諸国とキューバ革命

第二次世界大戦後のラテンアメリカ諸国では、1946年にアルゼンチンの大統領に当選したペロン  (任1946〜55、73〜74)のように、民族主義的で改革志向の政権が登場した。これらの政権は、輸入に頼っていた工業製品を自前で生産して経済的自立性を高めたり(輸入代替工業化政策)、土地改革を実施しようとしたりする動きを示した。(p.510)

 

アメリカは、48年にはラテンアメリカ諸国との間で米州機構OAS)を設立し、共同防衛の体制を強化し、反米民族主義の動きを牽制していた。(p.510)

 

アメリカ系の砂糖企業が多数進出していたキューバでは、親米的なバティスタ(任1940〜44、52〜58)による独裁政権が続いていたが、1959年1月、カストロ(任1959〜2008)  を指導者とする革命運動によって打倒される、キューバ革命が発生した。カストロは当初、社会主義的な志向をもっていなかったが、アメリカ系の砂糖企業も含めて土地改革を断行すると、アイゼンハワー政権は61年、キューバと断交し、亡命キューバ人による革命政権の打倒を計画した。この計画は、1961年に発足した民主党ケネディ(任1961〜63)政権にも継承されたが、失敗に終わった。この事件を契機にカストロ政権は、ソ連寄りの姿勢を強めるとともに、社会主義的性格を明確にしていった。他方、ケネディ政権の側では、穏健な土地改革などを助長することで、他のラテンアメリカ諸国へのキューバ革命阻止するため、「進歩のための同盟」を結成した。以後、キューバアメリカによる封鎖にたえながら、存続することになった。(p.510)

 

アメリカからの圧力に対抗するため、カストロ政権は1962年にソ連からの援助でミサイル基地の建設計画に踏み切った。10月、この動きを察知したケネディ政権は、海上封鎖でソ連船によるミサイル資材の搬入を阻止したので、米ソ間では核戦争の危機が一挙に高まった(キューバ危機)。しかし、アメリカの強硬姿勢に驚いたフルシチョフは、アメリカによるキューバへの内政不干渉を条件にミサイル基地の撤去に合意したので、以後、米ソ間では平和共存志向が強まり、翌63年には、地下を除く核実験の禁止条約(部分的核実験禁止条約)が成立した。また両首脳の意志疎通のために、ホワイトハウスクレムリン間に無線電話が引かれた(ホットライン)。(p.511)

 

『米ソ両大国の動揺と平和共存への転換』

アメリカの支配は、旧来の「梶棒外交」、また経済的な支配と冷戦の論理とが複雑に絡み合っていた。自由主義全体主義というイデオロギー的構図は前提としてあったが、たとえ独裁政権を相手にする場合でも、それがアメリカ企業や大土地所有者の利害を擁護したり、反共主義的であったりする場合には、迷うことなく支援した。その反面、そうした独裁政権への対抗勢力が政権をとった場合には、親ソ的ないし容共的として非難し、軍事介入も厭わないという立場をとった。アイゼンハワー政権によるグアテマラへの介入(1954)、ケネディ政権によるカストロ暗殺計画(1961)、ジョンソン政権によるドミニカ占領(1965〜66)、レーガン政権によるグレナダ侵攻(1983)など、そうした介入の事例は数多い。アメリカによる軍事介入は、独裁政権の維持や、長期の内戦をもたらすことになった。(p.512)

 

ベトナムへの介入が本格化するにつれ、「帝国主義的」とよびうるその振る舞いに対して、日本を含む世界各地で国際的な非難が巻き起こった。アメリカ国内でも同様であり、さらに人種差別の撤廃を訴える公民権運動の高揚がここに連動した。(p.512)

 

1969年に就任したニクソン大統領は、国務長官キッシンジャーとともに、泥沼化したベトナム介入からの撤退を模索したが、「名誉ある撤退」を求めたために和平交渉はいつまでもまとまらず、その間に北爆も続けられた。ようやくアメリカが撤退するのは73年のことであった。その後も南北ベトナムの戦いは続いたが、75年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落して、北ベトナム主導の統一が成し遂げられた。(p.512)

 

68年にはチェコスロヴァキア共産党ドプチェク(任1968〜69)のもと、社会主義体制の改革運動が起こったが(プラハの春)、ソ連のブレジネフ(任1964〜82)政権はワルシャワ条約機構軍を送り込んでこれを鎮圧した。ブレジネフは社会主義陣営全体の利益のためには一国の主権は制限されるという制限主権論を唱えて、この介入を正当化した(プレジネフ=ドクトリン)。(p.513)

 

東欧の内部でもルーマニアは、65年に成立したチャウシェスク(任1974〜89)政権のもと、豊富な石油資源に支えられてソ連に対する自主性を強めており、チェコスロヴァキア侵攻にも参加しなかった。(p.513)

 

71年、ニクソンは電撃的に訪中計画を発表し、同年末には中華人民共和国が台湾の中華民国にかわって国連の代表権を得た。72年、ニクソンは計画通り訪中し、毛沢東と米中共同宣言を発表し、そのなかで「中国は一つ、台湾は中国の一部」と北京政府が考えていることをアメリカ側が認識したと述べた。なお、同年には田中角栄首相(任1972〜74)も訪中し、日中国交正常化が成立した。(p.514)

 

『ヨーロッパでの緊張緩和』

1968年のチェコスロヴァキア事件ののちも、ド=ゴールやブラントはヨーロッパの緊張級和を追求すべきだと考えつづけた。69年にはブラントが西ドイツ首相(任1969〜74)となった。彼はソ連との関係を改善すべきだとド=ゴールから直接訴えられており、そのことから強い印象を受けていた。ブラント政権のもとで「東方外交」が全面展開するにいたり、72年に2つのドイツ国家は東西ドイツ基本条約に調印し、双方の主権を確認した。これを受けて73年には東西ドイツの国連同時加盟が実現した。(p.514)

 

ポルトガルでは1960年代に植民地アンゴラモザンビークで独立闘争が起こり、平定作戦は泥沼化した。70年に独裁者サラザールが死去したのちも状況は変わらず、軍内には現状の変更を求める声が高まった。74年、軍は無血クーデタを起こして従来の権威主義体制を打倒し、民主化の道を開くとともに植民地も放棄した。(p.515)

 

スペインでは75年に独裁者フランコが死去すると、彼によって後継者に指名されていたブルボン朝のフアン=カルロス1世(位1975 2014)が、権威主義体制の放棄と民主化に踏み切った。(p.515)

 

『中ソ対立と中国の動揺』

中国では1958年にソ連モデルを離れ、急速な農業・工業の成長をめざす大躍進運動が始まった。簡便な製鉄のための土法高炉やダム建設などの大規模土木事業に人々が動員され、農業では深耕密植(深く耕しぎっしり植え込むことによる増産)が進められるとともに、8000〜1万戸規模の人民会社が設立されて急落な集団化が進められた。しかし、土法高炉で生産された鉄は役に立たず、集団化は農昆の意欲を失わせて農業の生産性を悪化させ、大衆動員や深耕密植は農業生産を低下させることになり、結果として引き起こされた深刻な飢饉により3000〜4500万人が餓死するという大惨事となった。(p.515)

 

大躍進の失敗後、毛沢東国家主席を退き、新たに国家主席となった劉少奇(任1959〜68)や鄧小平(1904〜97)らによる経済再建が進められていた。しかし、毛沢東は権力奪取をはかり、1966年に文化大革命を発動、主導権を握った。学生たちが組織した紅衛兵らは全国に拡大して急進的な運動を繰り広げて混乱状況に陥ったため、68年からは軍によって秩序回復がはかられ、軍の指導者の林彪(1908〜71)は毛沢東の後継者とみなされるようになった。(p.515)

 

76年に周恩来、ついで毛沢東が死ぬと、四人組は逮捕され、文化大革命はようやく終結した。しかし、文化大革命による死者は40〜1000万人、被害者は1億人におよび、社会秩序は崩壊、文化的な損失も大きかった。文化大革命終結後、華国鋒(任1976〜81)を党主席とする指導体制が成立した。しかし、華国鋒共産党内の基盤が弱く、1978年には華国鋒にかわって鄧小平が実権を握り、農業・工業・国防・科学技術の「四つの近代化」を進めていく。(p.516)

 

ベトナム戦争インドシナ半島

南ベトナムではアメリカの支援のもとにゴ=ディン=ジエムが、大統領権限を強めた。これに対し、反ジエム政権とアメリカ帝国主義の打倒を唱えた南ベトナム解放民族戦線が、1960年に結成された。一方アメリカは、63年にズオン=ヴァン=ミン(1916〜2001)にクーデタを起こさせ、軍事政権を誕生させた。ベトナム民主共和国北ベトナム)と連携した解放戦線の攻勢に対して、アメリカは64年にトンキン湾の公海上アメリカ艦艇がベトナム民主共和国の攻撃を受けたとの口実(トンキン湾事件)をもとに、軍事介入を本格化させた。65年に北ベトナム爆撃(北爆)に踏み切ったアメリカ軍は、ダナンに上陸し、続いて韓国軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍も到着し、南ベトナム政府軍とともに解放戦線に攻勢をかけた。中国とソ連の援助を受けた北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、もちこたえた3年にわたる攻防ののち、少なからぬ人的被害を出したアメリカは、1968年に北爆を停止し、パリでベトナム民主共和国ベトナム共和国南ベトナム解放民族戦線アメリカの四者会談をよびかけた。69年にアメリカ大統領となったニクソンは、地上軍を南べトナム政府軍に委ね、アメリカ軍の犠牲を軽減する方針(ニクソン=ドクトリン)を発表した。73年にパリ和平協定が調印され、アメリカはベトナムから撤退することとなった。ベトナムでは、解放戦線が攻勢を強め、75年4月30日にサイゴンを陥落させ、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が終結した。76年に南北ベトナムは統一され、ベトナム社会主義共和国が成立した。(p.516)

 

カンボジアではベトナム戦争中に、社会主義政策を掲げた元首シハヌークとそれに反対する右派ロン=ノル(1913〜85)との対立が深刻化した。アメリカに支援されたロン=ノルは、1970年シハヌークを解任した。これに対しシハヌークは、左派クメール=ルージュと統一戦線を組んだ。クメール=ルージュは勢力を拡大し、75年にプノンペンを占領し、翌年ポル=ポト(1928〜98)を首班とする民主カンプチアを樹立した。(p.517)

 

『東西冷戦とアジアの国民国家形成』

社会主義的な経済政策を推進する国々がある一方で、逆に軍事政権や独裁的な反共体制によって経済発展をはかるという国も少なくなかった。韓国の李承晩・朴正煕、フィリピンのマルコス、インドネシアスハルトシンガポールのリー=クアンユー、マレーシアのマハティールなどのリーダーたちがそうした例であった。そこでは、表現の自由や政治的な自由などの基本的人権を犠牲にしても、経済成長を優先するという政策が志向された。こうした政治経済体制は、開発独裁とよばれる。(p.518)

 

インドネシアでは、共産党イスラーム勢力・国民党の勢力をまとめつつ、親中国路線をとっていたスカルノが、65年の九三〇事件を契機に失脚した。かわってスハルト(任1968〜98)率いる軍部が政権を握った。68年に大統領となったスハルトは、アメリカや西側陣営の諸国の資本を受け入れ、工業化をはかる開発経済政策を打ち出した。スハルトは、共産党を弾圧し、自由な政治活動や言論・出版を厳しく管理した。(p.518)

 

1963年にマラヤ連邦は、イギリス領ボルネオとシンガポールを合体してマレーシアとなったが、65年にシンガポールがそれから分離独立した。(p.519)

 

1967年、インドネシア・マレーシア・シンガポール・フィリピン・タイの5カ国は、友好関係を樹立するために経済社会・文化での相互協力を目的として、東南アジア諸国連合ASEAN)を結成した。当初は社会主義勢力に対抗した域内連合であったが、ベトナム戦争終結とともに城内外の政治的・経済的協力を誕う組織へと変化した。(p.519)

 

『韓国・台湾の開発独裁

1963年に大統領に就任した朴正煕の政権において、その正統性を支えるために重視されたのは経済発展であった。政権は輸出志向型工業路線を選択し、急速な経済成長を始めた。この経済成長を支えたのが、ベトナム戦争への派兵の見返りとしてのアメリカからの外資導入と軍事援助、さらには65年の日韓基本条約にともなう日本からの無償資金と借款および技術協力であった。(p.519)

 

60年代半ばに輸入代替から輸出主導の経済発展に転換、高雄に設立された輸出加工貿易区によって外資を誘致するとともに、民間企業が発展した。72年に実権を握った蔣経国(任1978〜88)のもとでは73年から巨額の投資をおこなう「十大建設計画」によって、交通インフラ整備がおこなわれ、これまでの軽工業にかわって重化学工業が発展、飛躍的な経済成長を達成した。(p.519)

 

西アジア開発独裁

西アジアにおける開発独裁としては、イランの例をあげることができる。モサデグ首相を追放した後、権力の強化をはかるパフレヴィー2世は、1961年アメリカの支援と要請に応えるかたちで王領地の払い下げをおこなったのに続いて、63年「白色革命」と称する上からの改革を宣言した。その中心は、長くイラン社会を支配してきた地主・小作関係を廃止して自作農民をつくりだすという農地改革であった。(p.520)

 

イランの開発は、1973年第4次中東戦争による石油危機で石油価格が高騰し、イランの石出収入が4倍にもなったことによってさらに促進された。莫大な石油収入は国内の産業に投資され、世界的にも顕著な経済成長をもたらした。(p.521)