詳説 世界史研究 第15章 米ソ冷戦の激化と西欧・日本の経済復興

朝鮮戦争

北朝鮮軍は1950年6月に韓国に侵攻し、不意を突かれ、装備でも劣る韓国軍を圧倒してたちまちソウルを占領、南下を続けた。これに対してアメリカが主導する国連安全保障理事会北朝鮮を非難し、マッカーサー(1880〜1964)を最高司令官とした在日アメリカ軍を中心とする国連軍を組織して(韓国もそれに編入)、朝鮮半島に派遣した。しかし、北朝鮮軍の南下は続き、国連軍を圧倒して釜山付近まで追いつめた。9月になると、国連軍は仁川への強襲上陸に成功してソウルを奪回、補給路を断たれた北朝鮮軍は総崩れとなって敗走し、国連軍は38度線を越えて北朝鮮領内に進攻した。10月、国連軍が中朝国境の鴨緑江に迫ると、中国は自国の安全保障上の危機とみなして人民義勇軍を派遣し、戦争は米中戦争へと転換した。中国軍は人海戦術といわれる人命を顧みない戦術によって国連軍を追い返し、一時はソウルを占領した。しかし、国連軍も反撃して再びソウルを奪回、戦線は38度線で膠着状況に陥った。この膠着状態の打開のために中国本土攻撃を主張したマッカーサーは最高司令官を解任された。その後、1953年4月から停戦会談が進展し、7月に休戦協定が結ばれた。(p.502)

 

『日本とアジアの安全保障体制』

日米安全保障条約以外にも、アメリカは1951年8月にフィリピンと相互防衛条約を結んだのを皮切りに、9月にはアメリカ・オーストラリア・ニュージーランドの太平洋安全保障条約(ANZUS)、53年10月に米韓相互防衛条約、54年12月に米華相互防衛条約を結び、アメリカを中心とするアジアの安全保障網が確立した。さらに55年にはバグダード条約機構(METO)、59年には中央条約機構(CENTO)が成立し安全保障網は中東にも拡大した。(p.503)

 

アメリカ合衆国の「豊かな社会」化』

第二次世界大戦後、ナチス=ドイツによるユダヤ人大量虐殺の暴露の衝撃から、1948年に国連が世界人権宜言を採択するなど、国際的には人種差別への批判が高まっていたが、アメリカ社会の南部では依然として「ジム=クロウ」とよばれる人種隔離制度が維持されていた。このギャップを埋めるべく、最高裁判所は54年に公立学校での人種隔離を違憲とする判決をくだした。翌年には、キング牧師(1929〜68)などを中心とする公民権運動が開始されるのであり、保守の時代といわれた50年代のアメリカ社会でも社会変動の萌芽がみられた。(p.505)

 

『西欧・日本の経済復興』

1948年マーシャル=プラン受け入れのためにヨーロッパ経済協力機構  (OEEC)が西側16カ国によってつくられていた(西ドイツは成立前)。国境を越えて経済協力をおこない、各国の経済的不均衡を是正する試みは、同年のベネルクス関税同盟が端緒となった。ついで50年、フランス外相シューマン(1886〜1963)が石炭と鉄鋼業の共同管理案を発表し、52年にフランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス3国によってヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。この6カ国がローマ条約に調印したことで、ヨーロッパ経済共同体(EEC)が58年に成立した。米ソ両国の核開発に対抗して原子力開発を共同で進めるためのヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)も、ローマ条約により同年成立した。ECSC、EEC、EURATOMは超国家機構であり、各国政府の政策決定を拘束する力をもった。67年にはこの3機構が統一して、上記6ヵ国が参加するヨーロッパ共同体(EC)が誕生した。(p.505)

 

フランスではアルジェリア独立運動に対する入植者による鎮圧運動が過激化し、それは本国における左右両派の対立をも深刻化させた。国論を統一できると目された唯一の候補は、すでに政界を引退していたド=ゴールであった。1958年、彼は大統領権限の強化を条件に政界に復帰すると、第五共和国憲法国民投票によって成立させ、第五共和政の最初の大統領となった(任1959〜69)。彼を支持した保守派の思惑とは裏腹に、ド=ゴールはアルジェリアへの独立承認に踏み切り、62年にアルジェリアは独立した。ド=ゴールはアメリカに対しても独自路線をとり、64年にはその反対にもかかわらず中華人民共和国を承認した。(p.506)

 

ソ連の雪どけと平和共存政策』

フルシチョフは国内改革でも重要な一歩を進めた。56年2月の第20回共産党大会で、スターリンの大テロルを暴露する秘密報告をおこなったのである(スターリン批判)。レーニン時代から生き残った古参党幹部、それに歴史家たちが、この動きを後押ししていた。秘密報告の内容は西側にもれて世界中に衝撃を与え、東欧支配をも揺るがした。(p.507)

 

4月にソ連コミンフォルムを解散していたが、6月にはポーランドポズナニで反ソ暴動が起こった。ソ連による軍事介入が危ぶまれたが、ゴムウカが事態をなんとか収拾した。彼はポーランド共産党の元指導者であったが、51年に民族主義者として逮捕されていた。スターリン死後に釈放されたゴムウカは、ポズナニ暴動のなかで指導者の座に返り咲いた(任1956〜70)  。(p.507)

 

ポーランドと対照的に、ハンガリーでは事態は悲劇的な経緯をたどった。56年10月に首都プダペストで知識人・学生・労働者が改革要求運動を起こすなかで、ハンガリー勤労者党(共産党に相当)内の改革派であるナジ=イムレ(任1953〜55。56)が首相に就任した。ナジは一党独裁の廃止、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立路線を打ち出すにいたり、ソ連軍が侵攻しナジも処刑された。スターリン批判は中ソ関係もそこなった。(p.508)