詳説 世界史研究 第14章 世界恐慌とファシズム諸国の侵略

世界恐慌とその影響』

恐慌は30年には金融恐慌に拡大し、有力銀行の閉鎖や倒産があいつぎ、各地で預金者が銀行に殺到して預金を下ろそうとする取付け騒ぎも多発した。これと連動して、民間銀行に不安をもった預金者が安全と思われた郵便貯金に預金を移す動きがあらわれ、31年から2年間で郵便貯金は3.4倍に膨れあがった。(p.466)

 

アメリカ市場の重要性、さらにアメリカ資本が世界経済の潤滑油の役割を担っていたことから、恐慌の影響はすぐに全世界に波及し、世界貿易は1932年までに3分の1以下に縮減した。なかでもアメリカからの資本で支えられていたドイツ経済は破滅的打撃を受け、31年にオーストリア最大の銀行クレディット=アンシュタルトが破産すると、金融恐慌は中欧・ドイツ全域に拡大した。(p.467)

 

アメリカ大統領フーヴァーは賠償・戦債支払いの1年間猶予(フーヴァー=モラトリアム)を発表したが効果はなく、同年9月にはイギリスも金本位制離脱に踏み切った。翌32年6〜7月、ローザンヌで賠償支払いをめぐる関係国会議が開催され、実質的には賠償をほぼ帳消しにする合意が達成されたが、恐慌の対策としても、またドイツ国内の政治的安定化にも効果がなかった。(p.467)

 

恐慌に対して多くの国では、緊縮財政・デフレ政策という伝統的な手法で対応した。減少する歳入に合わせて支出を削減するこの政策は、公務員の人員や給与の削減、新規事業の停止、福祉政策の大幅削減などによって、危機を乗り切り、景気の自然回復を待つというものであった。しかし、それは結果として消費意欲をさらに委縮させ、恐慌をいっそう悪化・長期化させる原因の1つとなった。金本位制離脱や保護関税などによって、自国を国際経済から切り離し、自国の経済基盤を守ろうとする政策も広くみられた。ドル・ポンド・フランなど国際的通用力のある通貨をもち植民地や大きな経済圏を保有するなど経済基盤の強い国では、自国の経済圏を閉鎖的ブロックとして囲い込む政策を採用したため、経済基盤の弱い国家はますます苦況に追いやられた。(p.467)

 

ニューディールブロック経済

1933年3月に大統領に就任したローズヴェルト(任1933〜45)は、まず銀行の連鎖的倒産を防ぐため、銀行の一時閉鎖を命令する緊急銀行法を制定し、復興金融公社によって銀行株を購入することで銀行の再建をはかった。また、「炉辺談話」とよばれたラジオを使った国民へのよびかけを通じて、経済復興への協力を訴えた。さらに、ニューディール(新規まき直し)とよばれる一連の恐慌対策を矢継ぎ早に提案した。5月に成立した農業調整法(AAA)では、補助金を支給して農産物の生産を縮小し、価格の下落を防止した。全国産業復興法(NIRA)では、工業製品の価格下落を防ぐため価格協定を容認するとともに、労働者の団結権・団体交渉権を公認した。また、巨額の公共事業を実施して、景気の浮揚をはかった。テネシー川流域開発公社(TVA)では、ダム建設による発電や近隣農村の改良事業を推進することで景気回復をめざした。

 

1934年春になっても、約1000万もの失業者が存在した。そのため、富の再分配などを求める社会運動が高揚したうえ、35年には連邦最高裁判所が全国産業復興法の一部が違憲であるとする判決を出した。そのため、ローズヴェルト政権は、改革姿勢をいっそう強化し、同年には全国産業復興法のなかで認められていた労働者の団結権などを認めたワグナー法(全国労働関係法)を成立させ、38年には不熟練労働者の労働組合である産業別組織会議(CIO)が結成された。また、経済復興の効果は小さかったが、社会保障法を成立させて貧困層の不満を緩和させるなど、ファシズム諸国に対抗して民主政治の擁護に成功した意義は大きかった。(p.469)

 

外交面では、1933年にソ連を承認するとともに、キューバに対するプラット修正条項を廃止するなど、ラテンアメリカ諸国に対しては内政千渉を控え、ドル経済圏に組み込むことを狙った善隣外交を展開した。また、ファシズム諸国による局地的侵略に対しては中立の立場を選択したが、39年にヨーロッパで戦争が勃発すると、大規模な軍備拡張を開始するとともに、41年には武器貸与法を制定して、イギリスなどの連合国側への支援を強化した。この軍需生産の拡大により、アメリカ経済は量的に急成長を遂げただけでなく、航空機・石油化学原子力・コンピュータなどの先端部門での技術革新にも成功し、戦後世界で覇権を確立する経済基盤を整備することになった。(p.469)

 

イギリスでは、1929年の大恐慌の影響で31年は280万もの失業者が発生し、失業保険の赤字拡大に対処するため、第2次マクドナルド労働党内閣は、失業保険額の引き下げや公務員給与のカットなどの緊縮財政案を提案した。しかし、与党の労働党がこれを拒否してマクドナルドを除名したため、マクドナルドは保守党や自由党の協力を得て、挙国一致内閣を組織し、財政削減と金本位制の停止を実施した。32年のオタワ連邦会議では、イギリス連邦内での関税を引き下げ、共通通貨のポンドを使用するスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)が結成され、世界経済の分裂を加速させた。また、35年に保守党中心の内閣が発足する頃には、ドイツが再軍備を宣言し、イタリアがエチオピアに侵政したが、37年に首相に就任したネヴィル=チェンバレン(任1937〜40)は、反ソ的態度を鮮明にしていたナチス=ドイツが東欧に進出して、西欧との対立を緩和させることを期待して宥和政策をとった。(p.469)

 

フランスでは、恐慌の影響が1932年になってあらわれ、政府は金本位制を維持した国と金ブロックを築いたが、1937年には解消した。ただし、仏領植民地との間ではフラン=ブロックを維持した。国内では、ナチス=ドイツの成立に刺激されて、極右勢力の活動が活発になったため、危機感をもった中道・左翼勢力がまとまり始めた。35年に仏ソ相互援助条約が結ばれ、翌36年、社会党・急進社会党共産党が協力して、社会党のブルム(任1936〜38、46〜47)を首相に反ファシズムを掲げる人民戦線内閣(1936〜38)が成立した。この内閣のもとで、週40時間労働制や年間有給休暇制が実現した。(p.470)

 

ドル・ポンド・フランなどの通貨を軸に経済圏をつくり、他国の商品を排除するプブロック経済は、ブロック間の対立を激化させ、通商に頼る中小諸国を苦しめた。(p.470)

 

満州事変』

関東軍は占領地を拡大して既成事実を積み上げ、1932年3月に清朝最後の皇帝溥儀を執政(のちの皇帝)とする満州国(1932〜45)を成立させた。しかし、リットン調査団が日本の利権を認めつつも満州国を承認しなかったため、反発した日本は翌33年に国際連盟を脱退した。(p.470)

 

満州事変に際して国民政府は、共産党の掃討など国家の統合を優先ーし、共産党根拠地の掃討を続けた。これにたえきれなくなった共産党軍は1934年10月に瑞金から撤退を開始したが、これが長征(1934〜36)の始まりとなる。共産党軍は国民党軍の追撃をかわしながら内陸奥地を移動して西省北部に到達し、ここに根拠地を設けることになった。この過程で、しだいに毛沢東の権力が確立されていった。(p.471)

 

世界恐慌が発生すると、本位通貨である銀の国外流出もあって中国は深刻な不況に陥った。そこで国民政府は銀を本位とする複雑な貨幣制度の改革を進め、1935年1月には政府系銀行の発行する紙幣(法幣)を統一通貨とする管理通貨体制への移行を実現した。アメリカ、イギリスの支援もあって信用を得た法幣は、国民政府支配地域に普及した。貨幣の統一が進展し、法幣が安定した影響もあって、中国経済は回復へと向かった。(p.471)

 

経済面を含む日本の侵略に対し、中国国内における反日運動は高まったが、国民政府はこれを抑制する政策をとって国民の反発を招いていた。一方、コミンテルンは統一戦線樹立の方針を出し、これを受けて1935年8月、共産党が八一宣言を出して抗日民族統一戦線結成をよびかけていた。しかし、国民政府は共産党の掃討を優先し、張学良の率いる東北軍を映西に派遣して掃討にあたらせた。ところが、故郷を日本軍に占領された東北軍兵士は共産党掃討に不満をいだいており、36年12月になると、張学良が蒋介石を監禁して内戦停止と一致抗日を要求する西安事件が発生した。蒋介石は要求を受け入れて解放され、中国は一致抗日へと向かったが、第2次国共合作が実現したのは日中戦争開始後であった。(p.471)

 

日中戦争

南京占領後に進められたドイツを仲介とする和平交渉は、日本側の要求が拡大するなかで挫折し、1938年1月には近衛文麿首相(任1937〜39、40〜41)は「国民政府を対手とせず」との声明を出して自ら和平交渉の可能性を閉じた。同年10月にかけて、日本軍は武漢や広州など、沿海と長江沿いの主要都市を占領したが、中国側は武漢、さらには重慶へと政府を移動させて日本軍への抵抗を続け、日中戦争は持久戦となっていった。11月になると近衛は東亜新秩序声明を出して、日本の提起する東亜新秩序に参加する場合は国民政府を排除しないとし国民党に対する工作を進めた。12月には国民党の有力人物である汪兆銘(1883〜1944)を重慶から脱出させ、40年3月に南京に日本軍古領地を統治する汪兆銘政権を樹立した。しかし、事実上の傀儡政権である汪兆銘政権は中国人の支持を得られず、日本側の工作は失敗に終わった。そして、国民政府に対する経済封鎖の拡大はイギリスアメリカなどの反発を招いて、日中戦争化を招き、日米対立、ひいては太平洋戦争へと繋がっていった。(p.472)

 

ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊』

1930年9月の選挙の結果、それまで小政党にすぎなかったヒトラー(1889〜1945)を指導者とする国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が一挙に100議席を超える大勝をおさめ、国会第二党の地位に浮上し共産党も勢力を拡大させた。(p.473)

 

33年1月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に指名し、ナチ党・保守派連立内閣を樹立させた。(p.474)

 

選挙中の1933年2月末、オランダ出身の一共産主義者による国会議事堂放火事件が起きると、ナチスはこれをドイツ共産党の企てと断定し、憲法の基本権を停止する緊急令を布告して共産党員など多数の反対派を拘束した。(p.474)

 

ヒトラーは国会招集後、国会の立法権を政府に委ねる全権委任法(1933)を成立させた。以後ナチスは国民革命と称して各州や自治体の権力を掌し、他政党を解散に追い込んでナチ党の一党独裁体制を確立した。さらに、既存の労働組合を解散させてナチ組織に統合させるなど、さまざまな社会組織・団体をナチ組織に統合あるいは改編させ、言論機関やマスコミをはじめ文化領域全般を新設された宣伝省の統制下においた。また、突撃隊(SA)や親衛隊(SS)は、社会主義者・民主主義者など反対派を強制収容所に拘禁し、ユダヤ人商店ボイコット運動を組織するなど、暴力やテロで反対派への露骨な弾圧を強め、ゲシュタポ  (秘密警察)  は反体制派の動きを監視した。(p.474)

 

ナチスは国内的には州の自治を廃して、連邦制から一元的な中央集権体制を築き、1934年にはナチ党内の一部急進派と保守反対派を暴力的に排除した(レーム事件)。ヒトラーは34年のヒンデンブルク大統領の死去後、その権限も引き継いで独裁者となった。短期間で国内支配基盤を確立したナチスは、対外的には軍備平等権が認められないことを理由に33年10月国際連盟を脱退した他は、当初はめだった行動にでなかった。(p.474)

 

ナチスが最初に取り組んだのは恐慌対策・失業者削減で、アウトバーン建設などの公共事業の推進、軍備拡大、労働奉仕組織への失業青少年の吸収などを実行した。(p.475)

 

ナチスは民族共同体建設をスローガンに掲げて、イタリアをモデルにした余暇組織の設立やラジオの普及など、国民の娯楽面へも配慮し、貧困層への救済事業、結婚資金の貸付け制度などの福祉社会事業も拡大する一方、1936年のベルリンオリンピックの開催を国民の自尊心を高めることに利用した。このため36〜37年には国民の多くがナチ体制への支持や同意を示すようになった。(p.475)

 

国内体制の整備が一段落すると、ヒトラーヴェルサイユ体制の破壊に乗り出した。1935年初め、かねて住民投票で最終帰属が決定されることになっていたザール地方で、住民投票がおこなわれ、圧倒的多数でドイツへの帰属が決定された。この成功を背景に、ヒトラーは同年3月、徴兵制復活と再軍備を宣言した。これに対しイギリスフランスとイタリア首脳は4月、北イタリアのストレーザで会談を開き、ドイツへの抗議とロカルノ体制の維持などを決議した(ストレーザ戦線)。しかし、この間イギリスはドイツとの間で海軍に関する交渉を進めており、それは6月英独海軍協定に帰結した。協定はドイツにイギリスの海軍水上艦艇の35%までを保有できること、またこの比率内でイギリスと同量の潜水艦を保有できることを認めていた。これは事実上、イギリスによるドイツの再軍備の追認であり、ストレーザ戦線は崩壊した。(p.475)

 

これに対しフランスは1935年5月、仏ソ相互援助条約を調印して、ドイツへの備えとしたが、36年3月この条約が批准されると、ヒトラーはそれによってドイツはロカルノ条約遵守の義務から解放されたとして、非武装地帯とされたラインラントに軍を進駐させた。イギリス・フランスや国際連盟は抗議声明を発表する以外の行動はとらなかった。これによってヴェルサイユ体制・ロカルノ体制は実質的に崩壊した。(p.476)

 

ソ連の五カ年計画とスターリン体制』

1927年にイギリスがソ連との外交関係を断絶すると、戦争への危恨から農民は穀物を売り惜しみ、食糧調達危機が発生した。これを機にスターリンは、それまで否定してきたトロツキーの工業化路線を取り入れ、急激な社会主義建設に舵を切った。農民は強制的に集団農場(コルホーズ)か国営農場(ソフホーズ)に組織され、移動の自由も奪われた。(p.476)

 

工業生産の指標としては、1928年から第1次五力年計画が開始されたが、もともと非現実的であった目標数値が途中でさらに引き上げられるなど、計画というよりは動員キャンペーンであった。市場関係は急激に縮小し、党・政府の指令に基づく中央集権的な社会主義体制がつくられていった。ソ連社会主義建設は大量の犠牲者を出し、効率も悪かったが、おりしも世界恐慌に苦しむ資本主義世界には、社会主義計画経済の優位が実証されたように映った。社会主義建設が進展するなかでスターリンの権威が高まり、社会の一元化も進んだ。20年代には許容されていた芸術・文化・学術における多様性も否定された。兵営にも例えられるスターリン体制が成立し、36年制定のスターリン憲法社会主義建設の基本的完了が宣言された。(p.476)

 

ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成』

それまでオーストリアの保護者を自任し、同国におけるドイツの影響力拡大を阻止してきたムッソリーニは、オーストリアが事実上ドイツの勢力圏内にあることを認め、ドイツとの連携路線に転換した。1936年11月、ムッソリーニはヨーロッパの国際関係の中心はベルリン=ローマ枢軸であるとの声明を発した。ここからドイツ・イタリアとその陣営は枢軸国とよばれた。(p.477)

 

スペインで1936年2月、総選挙で人民戦線派が勝利し、人民戦線政府が成立していた。スペインは30年にプリモ=デ=リベーラ将軍の独裁政権が倒され、翌年には国王も退位して共和政に移行し、その後は左右の政治対立が続いていた。人民戦線政府の成立は、なお大きな勢力を保持していた軍部・保守派カトリック教会などの危機意識を強め、それを背景に36年7月、フランコ将軍(1892〜1975)が反乱を起こした。反乱はスペインを二分する内戦となり、フランコはドイツ・イタリアに支援を求め、両国はそれに応じて兵器など軍需物資を提供し、さらに志願兵と称して正規軍を派遣した。一方、政府側には欧米の社会主義者や知識人、ドイツ・イタリア=ファシズム諸国からの亡命者などが国際義勇軍を組織して、支援に駆けつけたため、内戦は国際対立の代理戦争の性格をもった。イギリス・フランスは紛争をスペインに限定させようとして、人民戦線政府側・フランコ側双方への武器輸出禁止、内戦への不干渉を求める国際組織、不干渉委員会を設置させた。不干渉委員会にはドイツ・イタリアも加わっていたが、両国は公然とフランコへの援助を続けたので、委員会やがて、ソ連が政府側への援助をおこなうようになったが、39年反乱軍は首都マドリードを占領し、内戦はフランコ側の勝利に終わった。(p.477)

 

1936年には国際社会におけるソ連の存在意義と人民戦線を提唱するコミンテルンの影響力が高まることを警成して、日本とドイツは連携を強め、日独防共協定を締結した。37年にはイタリアもこれに加わったため、協定は三国防共協定に拡大し、イタリアは日本・ドイツに倣って国際連盟から脱退した。(p.478)