詳説 世界史研究 第14章 アジア・アフリカ地域の民族運動

新文化運動と文学革命

辛亥革命以後の中国の政治的混迷が続くなか、知識人の間で社会の啓蒙の必要性が重視されるようになった。その先駆けとなったのが、陳独秀(1879〜1942)らが1915年に上海で創刊した「新青年」(当初は「青年雑誌」)でめる。この雑誌は当初は「民主と科学」を掲げ、中国社会の革新と社会の旧弊打破を訴えこせきろじんるものであった。編集陣には胡適(1891〜1962)や魯迅(1881 ~~ 1936)などの有力な知識人が集まり、新文化運動の中心となっ(こてき)た。(p.453)

 

この運動のなかでもっとも大きな影響を与えたのが、胡適が1917年に「新青年」上に文章を発表してロ火を切った文学革命である。そこで胡適は、これまで正統とされてきた難解な文語文を廃して口語文による白話(口語)文学とすることを提唱した。これを受けて具体的な作品を生み出したのが魯迅であり、1918年に「新青年」上で『狂人日記 』を発表し、中国社会のあり方を内在的に描き、さらに21年には『阿Q正伝』を発表した。(p.454)

 

新文化運動のなかで、1910年代には西欧や日本のさまざまな思想が中国に紹介された。その1つがマルクス主義であり、李大釗が18年に『新青年 』に「ボリシェヴィズムの勝利」を著して社会主義を賛美した。陳独秀ものちに社会主義に傾き、20年には『新青年』を共産主義グループの機関誌としていった。(p.454)

 

『三・一独立運動と朝鮮統治の転換』

三・ー独立運動は上海やアメリカ、シベリアなどの海外にも拡大し、4月には李承晩を総理とする大韓民国臨時政府が上海に設立された。さらに、三・一独立運動は、中国の学生たちを刺激してその共感をよび、2カ月後の五・四運動にも影響を与えた。(p.454)

 

『五・四運動とワシントン体制』

19年1月に始まったパリ講和会議において、中国代表団は二十一カ条の要求の取り消しと山東の旧ドイツ利権の返還を要求した。アメリカもこれを支持したが、イギリス・フランスは早期から参戦していた日本を支持したため、この要求は受け入れられなかった。中国の要求が拒否されたという情報が梁啓超らによって中国に伝えられると、北京大学の学生らが中心となって5月4日には天安門広場に集まって集会をおこない、その後学生らは二十一力条の要求の際に署名していた曹汝霖(1877〜1966)の家をおそって放火し、居合わせた駐日公使章宗祥を殴打した。これに対して政府は学生を進捕して事態を沈静化させた。(p.456)

 

ヨーロッパの戦後処理がパリ講和会議で進められたのに対して、東アジアや太平洋に関しては、戦後の秩序が定まっていなかった。とくに大戦中に日本の勢力が伸長したことに対して、アメリカは懸念をいだいていた。そこで、アメリカ・イギリス・日本は1921〜22年にワシントン会議を開き、そこに中国も招待された。中国に関しては九カ国条約が結ばれ、中国の主権・独立と領土の保全、各国の商工業の中国に対する機会均等と門戸開放が誕われ、アメリカの掲げる門戸開放政策が確認された。また、海軍軍縮条約や太平洋の島々をめぐる四カ国条約が結ばれ、日英同盟は廃棄された。22年には山東問題に関する条約が結ばれ、中国への山東半島の旧ドイツ利権の返還が決まった。(p.456)

 

『国民党・共産党の成立と国共合作

ソヴィエト=ロシアが1919年7月に外務人民委員代理のカラハン 1889〜1937)の名でカラハン宣言を出し、旧ロシア政府が締結したすべての秘密条約を廃棄してすべての権益を無条件で中国に返還するとしたことは、いっそう社会主義への関心を高め、陳独秀は「新青年」においてマルクス主義の紹介・宣伝に努めることになった。(p.456)

 

広東にいた孫文は、1919年10月に中華革命党を中国国民党に改組し、大衆政党へと転換し、23年3月に北京の中央政府に対抗する広東政府を組織した。孫文は同時にソ進との関係強化をはかり、同年1月にはソ連のヨッフェ(1883〜1927)と会談して孫・ヨッフェ宣言を発表してソ連との提携を決定し、11月には「連ソ・容共・扶助工農」という政策を掲げて、ソ連中国共産党との協調路線を打ち出した。(p.456)

 

1924年1月、広州で国民党第1回全国代表大会が開かれ、そこでは国民政府の樹立をめざして、「連ソ・容共・扶助工農」を唱え、中国共産党との協力が掲げられた。ここでは共産党員が個人の資格で国民党員になり、国民党の中央のメンバーになっていた。これをのちに第1次国共合作(1924〜27)とよぶようになった。(p.457)

 

1925年2月に上海の日系紡績企業(在華紡)で労使紛争が発生し5月16日に中国人労働者が日本人職員に射殺される事件が発生した。これに抗議するデモに対し、5月30日にイギリスを中心とする租界警察が発砲して労働者が射殺されると、上海で大規模なストライキが発生し全国に拡大した。これを五・三○運動という。この運動の矛先は弾圧をおこなったイギリスに向かった。(p.457)

 

『南京国民政府の成立と全国統一』

1925年7月、広東の国民党政府は広州国民政府と名を改め、軍隊を国民革命軍に改編した。翌年5月、蒋介石を総司令とする国民革命軍は北伐を開始した。北伐軍は兵力で上回る軍閥軍を撃破して快進撃を続け、10月には武漢を占領した。(p.457)

 

蒋介石は4月12日、上海でクーデタを決行して共産党弾圧し、国民政府を樹立した。これに武漢国民政府は対抗できず、7月には共産党と絶縁し、第1次国共合作は終篇を迎えた。(p.458)

 

1928年4月に北伐は再開され、急進撃した北伐軍は東北軍閥の張作霖(1875〜1928)を破って6月には北京に入城し北伐の完成を宣言した。これに対して、日本は日本人居留民保護を口実に第2次山東出兵をおこなったが、その際に日本軍が済南において国民革命軍と武力衝突を起こし、中国側の軍民に多数の死傷者がでる事件が発生した(済南事件)。この事件の結果、中国の反帝国主義運動の標的はイギリスから日本に転換したうえ、蒋介石ら国民政府の日本観を著しく悪化させた。(p.458)

 

6月に北伐に敗れた張作霖が北京から奉天に撤退する際に、日本軍(関東軍)将校によって爆殺される事件が発生した。これは張作霖爆殺の混乱に乗じて東北の実権を掌握しようと狙ったものであった。しかし、張作霖の息子の張学良(1901〜2001)は東北の政権を迅速に継承し、日本の圧力があったものの、同年12月には国民政府への統合を決定、中国は国民政府によって統一されることになった。(p.458)

 

国共合作崩壊後の中国共産党コミンテルンの指導もあり、1927年8月に南昌で武装蜂起したのを皮切りに、各地で武装蜂起を繰り返したが、多くの犠牲を出して失敗に終わった。そこで毛沢東(1893〜1976)は湖南・江西省の山岳地帯に農村根拠地を築いて紅軍を強化、勢力の拡大をはかった。国民党側はこうした根拠地に対して包囲攻撃をおこなったが成功せず、根拠地は拡大した。それらの根拠地と統合して31年9月、江西省の瑞金を首都とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が成立し、毛沢東が主席となった。(p.458)

 

第一次世界大戦とガンディーの登場』

戦時中に自治を約束していたイギリスであったが、戦後の1919年インド統治法は、自治とはほど遠い内容であった。州行政の一部をインド人に委ねたものの、中央はイギリスが掌握しつづけるものであった。また、それと同時に、令状なしの逮捕。裁判なしの投獄が可能である強圧的なローラット法(1919)が制定された。アムリットサールの抗議集会でイギリス軍が民衆に発砲して多数の死傷者を出すという事件も、インド民衆の激しい反発をよんだ。こうしたなかで、非暴力での「非協力運動」を説き、インド民衆の新しい指導者として登場したのが、南アフリカでのインド人移民への差別撤廃を求めてサティヤーグラハ(真理をとらえるの意)とよばれる非暴力運動を展開して帰国したガンディーであった。(p.459)

 

『非協力運動』

1927年、インド統治法をめぐる憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていなかったことから、運動は再び激化した。激しい運動に直面して、インド総督はインドを自治領とすることを約束し、そのためのインド統治法の内容を、ロンドンで開催する円卓会議で検討するとした。しかし、自治実現までの具体的な日程は示されなかったため、29年に国民会議派内のネルー(1889〜1964)などの急進派が完全独立(プールナ=スワラージ)  を決議した。運動によび戻されたガンディーは、植民地支配の不合理性を象徴的に示すために、30年から「不服従運動」として「塩の行進」とよばれる運動を開始した。円卓会議では合意の達成にいたらず、32年に不服従運動が再開された。この運動により多くの人々が逮捕されるなかで、34年にガンディーは運動を中止した。翌35年、新インド統治法が成立した。州政治はインド人に委譲されたが、中央の財政・防衛・外交はイギリスが掌握しつづけることになり、完全独立とはほど遠い内容であった。(p.460)

 

『東南アジアにおける民族運動の展開』

インドネシアでは、1920年インドネシア共産党が組織され、植民地支配からの解放を唱えた。共産党はジャワの農民層の支持も獲得し、26年末から27年にかけて武装蜂起した。オランダはこれを弾圧し、共産党を解党した。しかし民族主義運動は、その後もスカルノ(1901〜70)やオランダ留学帰りの有識者の指導により、広がりをみせた。スカルノは、27年インドネシア国民党を結成し、インドネシアの完全独立を訴えた。(p.461)

 

フランス支配下ベトナムでは、ファン=ボイ=チャウら伝統的知識層にかわり。植民地体制下で育った新たな階層が台頭した。故郷を離れ1920年フランス共産党に入党し。コミンテルンの第5回大会に出席したグエン= アイ=クオック(阮愛国、のちのホー=チ=ミン 〈胡志明〉、1890〜1969)は、25年に広州でベトナム人青年を結集してベトナム青年革命同志会を結成した。その後ベトナム各地に共産党が設立されると、コミンテルンはグエン=アイ=クオックに共産党の統一を指示した。30年2月グエン=アイ=クオックは、それらを合同してベトナム共産党を組織し、同年10月にインドシナ共産党と改名した。(p.461)

 

民族運動の足並みの乱れに抗議するかたちで形成されたのが、イギリスからの完全独立を唱えて、「我らのビルマ協会」を名乗るタキン党の運動であった。ラングーン大学のタキン=バ=タウン(1902〜76)、アウンサン(1915〜47)、ウー=ヌ(1907〜95)、ネ=ウィン(1911〜2002)らが創設者となったタキン党は、国民の名称としての「ビルマ(バマー)」を、シャンやカレンなどの少数民族も含んだ「イギリス領のビルマに住む被支配民族すべて」を指す名称として用いた。タキン党は、社会主義思想を積極的に受容し、イギリスを帝国主義国家と断定し、「社会主義国ビルマの独立」を唱えた。イギリスは彼らの運動を厳しく弾圧した。(p.462)

 

アメリカ体制下でフィリピン農村は、サトウキビやマニラ麻輪出のためのモノカルチャー経済を押しつけられた。1930年代には、アメリカとそれに追随するフィリピンの寡頭政治家地主層への批判を強めたサクダル運動や、フィリビン社会党共産党の指導する労働争議が頻発した。また世界恐慌後の不況に苦しむアメリカの農業団体や労働団体が、フィリピンからの農産物が免税で輸入されるのを阻止するために、フィリピン独立運動を開始した。これを受けて、34年に独立準備法が成立し、翌年独立準備政府(コモンウェルス政府)が発足した。フィリピンは46年に独立することが決められた。(p.462)

 

トルコ革命

大戦中にイスタンブル防衛で勇名をはせた軍人のムスタファ=ケマル(のちのケマル=アタテュルク、1881〜1938)は、アナトリア東部に国民会議を開いてトルコ人の主権と領土(アナトリアと東部トラキア)を確認し、1920年オスマン政府が連合国とセーヴル条約を結んで列強の傀儡と化すと、アンカラにトルコ大国民議会を招集して革命政権を樹立した。(p.463)

 

トルコ大国民議会は1922年、国民主権の原則に基づいてスルタン制を廃止し、翌年には連合国とローザンヌ条約を結んで、トルコ人の独立と領土を確定した。このとき治外法権オスマン債務管理局などの半植民地時代の遺制を清算し、関税自主権を回復したことの意味は大きい。新生トルコは共和国を宣言して、ムスタファ=ケマルを大統領に選び、24年には共和国とは無縁のカリフ制も廃止した。預言者ムハンマドの死後に始まるイスラーム世界のカリフ制は、ここに終罵を迎えたことになる。共和国はケマルの組織した共和人民党の一党支配(46年まで)のもとで、国家と宗教を分離し(政教分離)、西欧化を通じての近代化をめざすー方で、国家主導の殖産興業政策によって民族資本の育成をはかった。女性の地位向上のために男女共学を導入し、参政権を与えたこと、また旧体制の思想と決別するために28年アラビア文字ラテン文字に改めたことは注目に値する。(p.463)

 

西アジア諸国の動向』

1917年ロシア革命で成立したソヴィエト政権は、帝政ロシアがイランに有していた権益を放棄してイランの独立を承認したが、イギリスはイラン全土の支配とロシア革命への干渉のために19年イギリス=イラン条約の締結をイラン政府に迫った。これに対してイラン国民議会は条約を承認せず、国内では反英民族運動が高まり、北部にはいくつかの地方革命政権も出現した。こうした状況下でクーデタによって権力を掌握したのが軍人のレザー=ハーン  (位1925〜41)であった。彼は25年にカージャール朝を廃止してパフレヴィー朝(1925〜79)を開き、国王(シャー)の独裁的な権力を行使して、中央集権的な国家体制の確立と、兵役や教育をとおしての国民統合の大事業に着手した。(p.464)

 

イランに隣接するアフガニスタンでは、アマヌッラー=ハーン(位1919〜29)が1919年、大戦で疲弊したイギリスと戦って勝利をおさめ(第3次アフガン戦争)完全な独立を達成した。彼は北のソヴィエト政権と友好条約を結ぶとともに、アタテュルクやレザー=ハーンの影響を受けて立憲君主制のもとでの近代化に着手したが、その世俗的な政策は国内の部族勢力の強い反発を招き、イタリアへの亡命をよぎなくされた。近代化政策と伝統を重んじる部族勢力との相克は、その後も長く続くことになる。(p.434)

 

1914年以来イギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後のパリ講和条約にエジプトの代表団(ワフド)  を送って独立を要求しようとする運動が起こった。これがイギリスによって阻止されると、ワフド党を結成したサアド=ザグルール(1857〜1927)率いる反英独立闘争は、大衆的な支持を得て全国に広がり(1919年革命)、イギリスはエジプトの独立を認めざるをえなくなった。これによってエジプト王国(1922〜53)が成立して憲法も発布されたが、イギリスはスエズ運河の支配をはじめとするさまざまな権益を保持しつづけたため、完全な独立を求める運動はやむことがなかった。これは「エジプト人のためのエジプト」をめざした1880年代初頭のウラービー運動を受け継ぐ国民主義の立場であった。(p.465)

 

『アフリカの民族運動』

都市化の進展や高等教育を受けた知識人層の形成を背景として、アフリカ人の民族運動が各地に生まれるようになった。まず1912年に南アフリカ連邦でアフリカ先住民民族会議が結成され(23年アフリカ民族会議〈ANC〉と改称)、請願を中心に人種差別法に反対する大衆運動を展開した。(p.466)

 

イギリス領トリニダードの弁護士ウィリアムズは1900年にロンドンでアメリカ・カリブ地域・アフリカの知識人の出席するパン=アフリカ会議を開催し、人種差別と西欧植民地主義に対する抗議をおこなった。さらにハーバード大学で博士号を得たアメリカ出身のデュ=ボイス(1868〜1963)は、大戦後のヴェルサイユ会議でアフリカ人の権利擁護を試み、19年彼の主導によりパリで開かれたパン=アフリカ会議で、アフリカ人の権利擁護、奴隷労働の禁止、段階的な自治の推進などを決議した。(p.466)