詳説 世界史研究 第14章 ヴェルサイユ体制下の欧米諸国

ヴェルサイユ条約とワシントン体制』

ドイツは全植民地を国際連盟に引き渡し、西部国境側ではアルザス・ロレーヌをフランスに返還して、さらに国境地域の一部をベルギーに割譲した。ザール地方は15年間国際連盟管理下におかれ、ラインラント非武装、ライン左岸も15年間の連合国側の保障占領を認め、その占領費も負担させられた。東部国境側では、ヴェストプロイセン州などを再興されたポーランド国家の外海への通行路として割譲し(ポーランド回廊)、ダンツィヒ市の国際管理への移行を認めた。ザール地方、オストプロイセンの一部、シュレジエン、北部シュレスヴィヒ地域の帰属は住民投票による決定に委ねられ、オーストリアとの合併は禁止された。軍備面では、徴兵制の廃止、陸軍兵力の10万人以下への制限、重砲・航空機戦車の保有禁止、また海軍兵力は1万6500人以下に制限、潜水艦の保有禁止、新造艦は1万以下に限定、などの制約を受けた。(p.440)

 

他の同盟側の敗戦国との講和条約もパリ周辺の宮殿・城館で調印され、ほぼヴェルサイユ条約に準じた内容となった。対オーストリア講和条約(サン=ジェルマン条約)は1919年9月に結ばれ、オーストリアは戦前と比べて面積・人口ともに4分の1に縮小され、ドイツ人のみの小共和国となった。ブルガリアとは19年11月ヌイイ条約が、ハンガリーとは20年6月トリアノン条約がそれぞれ調印され、ハンガリーは「歴史的領土」と人口の過半を失った。オスマン帝国の分割を内容とするセーヴル条約は20年8月に調印された。(p.441)

 

十四カ条でも取り上げられたロシア・オーストリア=ハンガリーオスマン3帝国内の諸民族の自治は、必ずしも各民族の国家的独立を意味していなかった。しかし民族自決権は一民族一国家という単純化したスローガンとして理解され、第一次世界大戦末期から、バルト地域からバルカン半島にいたる広範な中欧地域で、それぞれの新国家が建設されていた。連合国もそうした動きを追認せざるをえず、再興されたポーランドをはじめとして、バルト地域からバルカン半島にいたる中・東欧地域でフィンランドエストニアラトヴィア・リトアニアポーランドチェコスロヴァキアハンガリーセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(ユーゴスラヴィア)8カ国の新興国家が成立した。これらの国家は実際には国内になお少数民族をかかえる複雑な民族構成をもち、一方、国外にはそれぞれかなりの数の自民族いた。そのため連合国は、新たな民族紛争の発生を懸念して、新興諸国に国内の少数民族の権利保護を義務づける条約を結ばせた。(p.441)

 

ドイツの旧植民地とオスマン帝国内の非トルコ人地域については、国際連盟から先進国(戦勝国)  に統治を委任する形式がとられ、旧ドイツ領はおもにイギリス連邦諸国と日本の、またオスマン帝国内のイラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリアはフランスの委任統治下におかれた。なお、アラビア半島のイブン=サゥードの独立は認められた。(p.441)

 

民族自決権や国家的独立がヨーロッパに限定され、旧ドイツ植民地が事実上戦勝大国間で再配分されたことは、アジア・アフリカの植民地の人々を失望させた。(p.441)

 

アメリカも常任理事国となることが予定されていたが、対外的義務の負担と外交的自由の拘束をきらう共和党保守派の反対、ウィルソン大統領自身の非妥協的姿勢によって、19年11月、上院でヴェルサイユ条約批准が否決されたため、国際連盟にも加盟しなかった。(p.442)

 

アメリカでは、民主党のウィルソンの後を継いで、1921年共和党のハーディングが大統領になった。共和党アメリカの外交の自由を唱え、国際連盟加盟に反対したが、軍事力に拠らず、国際経済の拡大によって世界の安定をはかる構想をもっており、21年11月から翌年2月にかけて米・英・仏・日・伊など9カ国が参加するワシントン会議を開催した。会議では米・英・日、仏・伊の主力艦の保有トン数の上限と保有比率を定めた海軍軍備制限条約が合意され、比率はそれぞれ5:5:3:1.67:1.67とされ、今後10年間主力艦を建造しないことも決められた。また中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約束した九カ国条約(前記5カ国にベルギー・オランダ・ポルトガル・中国が加わった)と、太平洋諸島の現状維持を約した米・英・仏・日の四カ国条約も締結され、日英同盟は解消された。これによってアジア・太平洋地域の新しい国際秩序としてワシントン体制が成立した。なお、会議とは別にこの機会に日中間の交渉がおこなわれ、山東半島の旧ドイツ権益を中国に返還することが決まった。(p.442)

 

『国際協調と軍縮の進展』

21年のロンドン会議でようやく賠償総額を1320億金マルク(大戦前の1金マルクは純金0.358423gに相当)と確定し、ロンドンの最後通牒によってドイツ側に認めさせた。・・・23年1月には、フランスとベルギーはドイツの石炭コークス引き渡し量不足を理由に、ドイツの石炭生産の中心地で、有数の重工業地域であったルール地方に軍を進駐させて、直接賠償の取立てに乗り出す事態になった。ドイツ側の抵抗が続くなか、24年になってドーズ案による賠償支払い問題のいちおうの決着がはかられたが、こうした状況のもとでは国際連盟の政治的活動の余地は狭められた。(p.442)

 

22年に開催されたヨーロッパ経済復興会議(ジェノヴァ会議)の際、ドイツがヴェルサイユ体制下で疎外されていたソヴィエト= ロシアと国交を回復し、相互に賠償請求を放棄するラパロ条約を結んで、国際社会を驚かせたのも、ドイツの修正主義外交の一環であった。(p.442)

 

トルコでは、講和条約調印時にアンカラに本拠をおいていたムスタファ=ケマルらの勢力が条約の受け入れを拒否し、一方戦勝国となったギリシアイズミルを拠点に小アジアでの勢力拡大を企図して、軍事衝突にいたった(ギリシア=トルコ戦争)。1922年ギリシアが敗北してイズミルを放棄し小アジアから撤退すると、トルコは連合国と交渉し、23年7月セーヴル条約にかわるローザンヌ条約をあらためて結びトルコ・ギリシア間の国境が決定された。(p.444)

 

ギリシアと同様に戦勝国でありながら、イタリアもまた早くから修正主義外交を展開した国であった。秘密条約による領土拡大の約束のもとに参戦した唯一の列強であったイタリアは、港湾都市フィウメのイタリアへの帰属を要求し、それが認められないと1919年4月には一時講和会議を離脱した。こうした進展に不満をもつ作家ダヌンツィオ(1863〜1938)らに率いられたイタリアのナショナリストの一団は、19年9月に独断でフィウメを占領した。その後フィウメをダンツィヒ方式の自由港にすることが合意され、ダヌンツィオらは退去させられた。しかし、ムッソリーニ政権は24年、ユーゴスラヴィアにフィウメのイタリア帰属を認めさせ、当初の要求を押しとおした。(p.444)

 

ロカルノ条約とは会議で合意された、ラインラントの現状維持を定めた安全保障条約(ライン条約)、ドイツと隣接4カ国(フランス・ベルギー・ポーランドチェコスロヴァキア)間の仲裁裁判条約の総称であり、正式調印は同年12月ロンドンでおこなわれ26年のドイツの国際連盟加盟をもって発効した。(p.444)

 

28年8月、国際紛争の解決手段として武カを行使しないことを宣言する不戦条約(ブリアンケロッグ条約)に米・英・仏独・日など15カ国が調印し、その後賛同国は29年末までに54カ国にのぼった。(p.445)

 

アメリカはワシントン会議での海軍軍備制限を主力艦以外にも広げることを提案し、27年ジュネーヴに米・英・日3カ国(フランスとイタリアは参加しなかった)による巡洋艦以下の補助艦の制限会議を開催したがまとまらず、30年1月のロンドン会議でようやく妥協が成立した。この結果、米・英・日の総トン数比率は10:10:6.975となった。(p.445)

 

『西欧諸国の停滞』

イギリスは、大戦末期の1918年に30歳以上の女性選挙権導入や男性選挙権を21歳以上に改正するなどして政治基盤を拡大させ(第4回選挙法改正)、さらに28年には女性選挙権を男性と同じ21歳に引き下げ(第5回選挙法改正)、ほぼ男女平等選挙権に近づいた。戦後最初の総選挙(18年12月)では、大戦中からの自由党・保守党の連立政権が圧勝し、ロイド=ジョージ政府は継続して平時体制への移行問題に対応した。大戦中もイギリス側と激しく対立していたアイルランド民族運動に対しては、20年末、アイルランド統治法によって、北部のアルスター地域を除く諸州に自治を与え、さらに21年には自治諸州をアイルランド自由国として自治領と認めて、一定の解決をはかった。なお26年の帝国会議では、イギリスと自治領との関係を名目上対等とする報告書が提出され、31年のウェストミンスター憲章で確認されて、イギリス連邦の枠組みができあがった。しかし、アイルランドでは完全独立を求めるデ=ヴァレラ(任1937〜48,51〜54)が30年代に政権を握ると、37年新憲法を制定して、国名をエールとし、イギリス国王への忠誠をやめ、実質的に連邦体制から離れた。(p.446)

 

対独強硬路線はポワンカレ首相(任1922 24、26〜29)のもとでおこなわれた23年1月のルール占領で頂点に達したが、国際的な批判を受け、20年代後半には集団安全保障体制を重視する方向に転じた。(p.446)

 

ドイツでは敗戦後、兵士・労働者の革命組織(レーテRite)を支援して、民主化と急進的社会改革推進を要求する共産党などの左派と、保守的市民層や軍部・経済界と結んで、革命を政治改革にとどめ、講和交渉や平時体制への移行を優先する社会民主党臨時政府との間で激しい対立が起こった。共産党ら左派の蜂起は1919年前半には武カで制圧され、ローザ=ルクセンブルク・カール=リープクネヒト(1871〜1919)ら党指導者が殺害された。19年初め、男女普通選挙権のもとでおこなわれた憲法制定国民議会が中部ドイツのヴァイマルで開催され、社会民主党エーベルト(任1919〜25)を大統領に選出し、憲法を制定した。開催地の名から、成立した共和国はヴァイマル共和国(1919〜33)、その憲法ヴァイマル憲法とよばれている。ヴァイマル憲法は国民の徹底した参政権など公民権の保障のみならず、生存権・労働権の保障、青少年・家族の保護など、福祉国家の基本的枠組みとなる要素を取り入れ、当時もっとも民主的な憲法と評された。(p.447)

 

内政面では、敗戦とヴェルサイユ条約を共和国の責任とする保守派やナチスなどの国粋主義者が早くから反共和国行動や批判を繰り返し、共産党もまた共和国打倒の革命蜂起を企て、1923年秋の危機には、ヒトラーミュンヘンでナチ党を率いて反共和国武装蜂起(ヒトラー一換)を起こすなど、左右政治勢力の対立がおさまらなかった。経済面でも戦後インフレが昂進して、国民の生活基盤を動揺させ、さらにルール占領の際には、ドイツは占領軍への不服従運動(消極的抵抗)で抵抗し、その費用を負担したため、23年秋には、1ドル= 4兆2000億マルクの交換比率となる記録的な通貨インフレに陥った。こうした経済の混乱は、同年秋のレンテンマルクの採用、24年のドーズ案の受け入れとアメリカからの資本導入によって、24年以降一時的に収束したが、それは共和国の支持基盤の拡大には繋がらなかった。25年エーベルト大統領が死去すると、後任には大戦中の参謀総長で帝政主義的心情をもつ高齢のヒンデンブルク(任1925〜34)が選出され、国民のなかにある深い政治的亀裂を明らかにした。29年、世界恐慌によってアメリカ資本が引き揚げられると、アメリカ資本に依存するドイツ経済は破滅的状況になり、政治的・社会的混迷が加速して国会も機能不全状態に陥った。(p.447)

 

『イタリアのファシズム

21年、ムッソリーニは各地のファシスト勢力を、全国ファシスト党へと統合し、22年実力で政権を掌握するためにファシスト党による「ローマ進軍」を組織して、政府や支配層に圧力をかけた。政府はこの動きを阻止しようとしたが、国内の混乱を恐れる国王はムッソリーニを首相(任1922〜43)に任命した。ムッソリーニは選挙の第一党に議席の3分の2を与えるという新法を認めさせて、事実上ファシスト党主導下に議会の無力化を実現した。20年代後半になると、彼は他政党を解散させてファシスト党の一党支配を実現し、検関や秘密警察によって反対派を厳しく抑圧する独裁体制を築いた。一方で、ムッソリーニは1929年には長くイタリア国家と国交断絶状態にあった教皇庁(ヴァチカン市国)とラテラノ(ラテラン)条約(政教条約)を結んで関係を正常化し、さらに千拓事業や社会事業を推進する一方、余暇組織(ドーポ=ラボーロ)による現代的娯楽や文化を国民に提供して、国民の合意を取りつけようとし、ある程度成果をあげた。(p.448)

 

ムッソリーニファシスト党の思想・組織形態・行動様式・支配は、ファシズムとよばれる。ファシズムは、国民をー元的に国家のもとに統合し、国民生活を統制することによって国家の危機を克服することを唱え(全体主義)、議会主義や共産主義を国内の対立や分裂を促す原因と決めつけ、反対や異論を唱える者を暴力的に抑圧した。一方、ファシズムは国民を絶えず政治的に動員するものの、国民の生活や労働者の期待にも一定の配慮を示す点権威主義体制や保守的独裁体制とは異なっていた。(p.448)

 

『東欧・バルカン諸国の動揺』

オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、ハンガリーでは1919年にクン=ベラ(1885〜1937)  の共産党政権が生まれたが、社会主義的政策を強行したことにより農村部の反発を買い、ルーマニアの介入もあって半年で瓦解した。実権を握った軍部や右派勢力は、20年に海軍軍人のホルティ(1868〜1957)を摂政とした。彼のもとで大貴族のベトレン(1874〜1947)が首相となり、権威主義体制が確立された。ハンガリーでは大土地所有制が維持され、激しい社会格差が残った。他方、トリアノン条約で「歴史的領土」の3分の2を喪失したことで、ハンガリーヴェルサイユ体制の修正をめざす重要な勢力となった。(p.448)

 

ウクライナ人やユダヤ人を少数民族として擁するポーランドでは、国内政治を安定させるために、カリスマ的な軍人ピウスツキ(1867〜1935)が26年にクーデタを成功させた。リトアニアでも、准軍事組織であるリトアニア狙撃兵連合の指導者であり、大学の哲学教員でもあったスメトナ(任1919〜20、26〜40)が、同じ年にクーデタで政権に就いた。(p.449)

 

バルカンではセルビアが1918年にモンテネグロを併合し、さらにオーストリア帝国から分離した南スラヴ系諸民族とセルブ=クロアート=スロヴェーン王国をつくった(29年に「南スラヴ人の国」を意味するユーゴスラヴィアに改称)。ユーゴスラヴィアではセルビア人主導の体制に対して、クロアティア人とスロヴェニア人が不満をいだいていた。29年に国王アレクサンダル1世(任1921〜34)はクーデタを敢行し、セルビア人優位の体制をさらに強化した。(p.449)

 

ソ連社会主義建設』

総じて20年代ソ連は、大規模工場の国有化と土地私有の廃止によって社会主義の最低限の基本線は維持しつつも、市場経済を大幅に許容する混合体制をとった。これはのちに中国で鄭小平が改革開放政策を始める際にも参考にされた。(p.449)

 

1923年にレーニンは脳溢血で再起不能となり、翌24年1月に死去した。この前後から党内では後継者争いが起こり、22年に党書記長となったスターリン(1878/79〜1953)が、一時はレーニンにつぐ実力者と目されていたトロツキーの追い落としに成功した。・・・理論面でもトロッキーが世界革命までもちこたえるという内戦期の共産党の見解に忠実でありつづけたのに対して、スターリンは一国社会主義という新基軸を打ち出した。(p.449)

 

アメリカ合衆国の繁栄』

ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発したとき、ウィルソンは中立を宣言したが、連合国側に物資や借款(外債の購入による)を提供して巨額の利益をあげ、債務国から債権国に転換して戦後にはロンドンと並ぶ国際金融センターの1つに成長していった。(p.450)

 

1920年代になると、むしろ自由放任を求める「平常への復帰」が叫ばれ、ハーディング(任1921〜23)、クーリッジ(任1923〜29)、フーヴァー(任1929〜33)と3代12年にわたり、共和党政権が継続し、「水遠の繁栄」が謳歌された。そのもとで、社会主義者などに対する「赤狩り」が横行し、黒人だけでなく、東欧や南欧からのカトリック系やユダヤ系の移民を排斥する第2次クー=クラックス=クラン(KKK)の運動が北部で台頭した。また、24年には、東欧や南欧からの移民を制限するとともに、アジア系移民の流入を禁止する移民法が制定されるなど、不寛容な時代でもあった。(p.451)

 

アメリカは、ドーズ案やヤング案などを提案して、賠償問題の現実可能な解決策を提案するとともに、西欧に対する投資を助長した結果、20年代後半にはいると西欧経済も復興するようになった。(p.452)