詳説 世界史研究 第14章 第一次世界大戦とロシア革命

バルカン半島の危機』

焦点となったのはバルカン半島である。同地が「ヨーロッパの火薬庫」とよばれるほどの緊張地帯となったのは、オスマン帝国の衰退を1つの背景としていた。19世紀のうちヨーロッパ列強は、オスマン帝国の勢力圏を切り崩し、自らの間で配分し直すことで、利害の対立を調節していた。1877〜78年にかけてのロシア=トルコ戦争における、サン=ステファノ講和条約とベルリン条約による戦後処理は、その端的な事例であった。(p.430)

 

1908年夏、オスマン帝国青年トルコ人革命が勃発して国内の混乱が生じると、オーストリア=ハンガリーベルリン会議において行政管理権を認められていたボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を敢行した。ブルガリアオスマン帝国から独立した。ボスニアヘルツェゴヴィナは、住民の多くが南スラヴ系であり、南スラヴの盟主をめざすセルビア編入を望んでいた。オーストリアに反発したセルビアは、同じ正教国であり、スラヴ世界の盟主を自任していたロシアに支援を求めた。(p.430)

 

1911年、イタリアはトリポリ在留民の保護を口実として、混乱のやまないオスマン帝国に戦争をしかけた(イタリア=トルコ戦争)。翌12年、スイスのローザンヌで講和会議がもたれ、イタリアは北アフリカトリポリキレナイカの支配権を得た。(p.430)

 

セルビアブルガリアモンテネグロギリシアもバルカン同盟を結成し、1912年にオスマン帝国に宣戦布告した(第1次バルカン戦争)。オスマン帝国は敗北し、13年のロンドン条約イスタンブル周辺を除くバルカン半島のほとんどを喪失した。だが、今度はオスマン帝国が割譲した領土の分配をめぐって、セルビアブルガリアが対立した。両国はもともとマケドニア地方の領有をめぐって争っていた。ギリシアモンテネグロオスマン帝国ルーマニアセルビアの側についた。この第2次バルカン戦争でブルガリアは敗北し、1913年8月のブカレスト条約でマケドニアなどを失った。敗北によってブルガリアの領土欲が弱まることはなく、後ろ盾としてのドイツへの傾斜を強めた。(p.430)

 

第一次世界大戦の勃発』

ロシアにとってセルビアを見捨てることは、大国としての威信をそこなうことを意味した。国内において議会の力を押さえ込み、強大な皇帝権力を維持しているロシア皇帝ニコライ2世にとって大国の威信を失うことは、統治の危機に繋がりかねなかった。ロシアは総動員令を発し、これに対してドイツが宣戦を布告した。こうして1914年8月1日第一次世界大戦が始まった。(p.431)

 

ロシアとフランスの両方を同時に相手にすることを避けたいドイツは、まずは西方に主力を集中させて、短時日でパリを陥落させることを考えていた(シュリーフェン計画)。そのためには中立国ベルギー領内への進軍もやむなしとされた。だが、このベルギー侵攻は、反ドイツの立場で参戦するための、格好の口実をイギリスに与えることになった。(p.431)

 

ドイツのパリ進撃も、1914年9月のマルヌの戦いに敗れることで阻止され、以後西部戦線塹壕戦による膠着戦となった。東部戦線では同年8月、ヒンデンブルク率いるドイツ軍が東プロイセンタンネンベルクの戦いでロシア軍を破り、ポーランドなどロシア領内に進撃したが、ロシア領は広大であり、輸送手段も十分ではないため、戦局の見通しはつかなかった。こうしてドイツにとっては、ロシアとフランスの両方を同時に相手にするという最悪のシナリオが現実のものとなった。(p.431)

 

『総力戦と戦時外交』

第一次世界大戦の最大の特徴は、長期戦かつ総力戦となったことである。それ以前の戦争は、プロイセン=フランス戦争のように数力月の短期戦が普通であったし、前線ではなく後方にいる一般市民の暮しも、大きく変わることはなかった。第一次世界大戦が始まったときも、一般人の多くは戦争が数カ月で終わると考えていた。もっとも各国の軍の指導部内には、長期戦・総力戦となる予想があった。(p.432)

 

大戦が長期化した1つの理由は、産業が高度に発展していたことである。1870年代に第2次産業革命が起こり、石油や電気といった新しい動力源が広まり、重化学工業も登場した。こうした状況下で、ヨーロッパ各国が自らの産業力を最大限に発揮した結果、戦闘継続能力も著しく高まったのである。(p.432)

 

産業の総動員を可能にするために、後方の生活も国家によって再編された。レッセ=フェール(自由放任主義)を原則としていた開戦前のヨーロッパのあり方とは大きく異なり、政府が経済活動を規制し、市民生活のさまざまな領域にも介入するようになった。国営企業ばかりか民間企業も政府の管理下におかれ、原料の配分や発注などが統制された。労働義務の導入に代表されるように、労働市場も国家によって管理された。(p.432)

 

政府が経済活動を全面的に規制するこうした事態は、当時、「国家資本主義」とも「戦争社会主義」ともよばれた。このような総動員体制は、1916年8月にヒンデンブルクルーデンドルフ(1865〜1937)による軍部独裁体制が敷かれたドイツで、とくに全面的な展開をみた。イギリスでも軍需相であったロイド=ジョージが同年12月に挙国一致内閣の首相(任1916〜22)となり、動員に特化した5人の大臣の戦時内閣を組織した。その他の国でも、多かれ少なかれ同様の体制が敷かれた。また、男性が出征することでできた欠員を埋めるために、工場労働者・電信交換手トラクター運転手、さらには警官などにまで、女性の就労できる部門が著しく拡大した。(p.433)

 

第一次世界大戦の長期化は、塹壕戦の展開とも深くかかわっていた。機関銃が導入されたことで、突撃戦や白兵戦は困難になった。そのため、塹壕を掘って一進一退を繰り返す戦闘が西部戦線では基本となったのである。多数の負傷者がでても、すぐに鉄道やトラックによって後方から兵員を補充することができたことも、塹壕戦の維持を可能にした。ただし東部戦線では土壌が悪いせいもあり、暫壕戦はそれほど広まらなかった。(p.433)

 

塹壕戦によって戦線が腰着すると、状況を打開するために新兵器の開発が促された。遠方から暫壕を攻撃するために毒ガスが開発され、1915年4月、西部戦線のイープルの戦いでドイツ軍によって使用された。「イペリット」というマスタードガスの通称は、この地名からついた。また、塹壕陣地に張りめぐらされていた有刺鉄線を突破するために、装甲で覆われた戦車が開発され、16年6月からのソンムの戦いで、イギリス軍によってはじめて投入された。同年2〜12月のヴェルダン要塞をめぐる攻防戦では、仏独両軍の戦死者は70万人に達した。(p.433)

 

フランスでは第一次世界大戦中に、アフリカとインドシナの植民地から80〜90万人を兵力または労働力として動員した。動員された植民地の人々は、戦闘に参加し、また間近で戦闘を目撃することによって、それまで教え込まれていたように白人が特別な存在というわけではないということ、殺害することも可能であることを知った。これは戦後に植民地の人々が権利意識を強める背景となった。(p.434)

 

第一次世界大戦の戦争目的は、当初さほど明確にはされていなかった。表向きは、ドイツに侵略されたベルギーや、オーストリアに圧力をかけられたセルビアなどを念頭において、「小民族の擁護」が掲げられることもあった。だが、これは建前にすぎず、実際には各国は領土拡張や賠償金の獲得を目的としていた。「小民族」の自決が本気で考えられることもなく、各国はあくまで相手方を内側から掘り崩すために、あるいはまた戦争協力を得るためだけに、自治や独立の空約束を諸民族に与えた。そうした約束と並行して、舞台裏では勢力圏の再分割を取り決めた秘密外交が繰り広げられた。イタリアが連合国側についたのも、ロンドン秘密条約で、オーストリアにおける「未回収のイタリア」の獲得が約束されたからである。(p.434)

 

1916年5月には、イギリス・フランス・ロシアはオスマン帝国領の分割を協議して、パレスチナを国際管理地域とするサイクス・ピコ協定ペトログラードで締結した。ロシアにはアルメニアの割譲が約された。その一方でイギリスはまた、オスマン帝国内のアラブ人を味方につけるために、アラブ民族運動指導者を相手に1915年、フセイン・マクマホン協定を結んで独立国家建設を約束していた。さらに17年11月にイギリス外相バルフォアは、パレスチナユダヤ人の居住地を建設することを認めた(バルフォア宣言)。こうしてイギリスは、パレスチナでの国家建設をアラブ人とユダヤ人の双方に約束しつつ、実際にはそれを無効にするような協定を列強で締結した。これはのちのパレスチナ問題の直接の原因となった。(p.434)

 

アメリカの参戦』

中立国アメリカは連合国と緊密な経済関係を構築していたが、15年5月に多くのアメリカ人が乗ったイギリス客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈されると、アメリカ人の反独感情が高まった。17年2月にドイツが中立国をも対象とする無制限潜水艦作戦を開始すると、4月、ウィルソンは連合国側で第一次世界大戦に参戦した。(p.434)

 

同盟国側は、1917年11月に成立したソヴィエト=ロシア(ロシア革命政府)と、18年3月にブレスト=リトフスク講和条約を締結し、東部戦線では戦闘を終結させた。(p.435)

 

ドイツ軍部は勝利の見込みがないことを悟り、議会指導者に政権を委ね、アメリカ大統領との休戦交渉が始まった。だが、この期におよんで無謀な出撃命令がくだされたことで、ドイツ海軍の水兵の間に反発が起こり、11月3日、キール軍港で蜂起が起こった。反乱は全国に広まり、ベルリンで共和国の成立が宣言され、皇帝ヴィルへルム2世はオランダに亡命した。11月11日、フランスのコンピエーヌの森で休戦協定が結ばれ、第一次世界大戦は終わった。(p.435)

 

『大戦の結果』

ヨーロッパの地位が低下するのと並行して、新しい勢力が国際政治において存在感を増した。何よりもまずアメリカが、債務国から債権国へと立場を変え、国土も無傷のままで台頭した。ソヴィエト=ロシアも、経済的には戦争・革命・内戦により疲弊していたが、資本主義や帝国主義に対する強力な批判者として登場した。日本もまた、アジア・太平洋地域での存在感を高め、非白人世界における唯一の強国の地位を得ることになった。総じて第一次世界大戦は、ヨーロッパー極支配から、多極化への転換を画すこととなった。(p.436)

 

ロシア革命

1917年3月12日(ロシア暦2月27日)、首都ペトログラードにおいて労働者の反乱に兵士が合流し、帝政政府は倒れた(二月革命)。自由主義者は臨時政府をつくったが、戦争は継続する方針をとった。他方、労働者や兵士を支持基盤とする社会主義者は、ペトログラードをはじめとする各地において、工場や部隊の代議員からなるソヴィエト  (評議会)を組織した。(p.436)

 

民衆層の声の受け皿となったのが、社会主義者のうちの急進派であるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ)である。4月に亡命地スイスから帰還したその指導者レーニンは、四月テーゼを発表し、臨時政府打倒、社会主義政権の樹立を目標に掲げた。レーニンはまた、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンのもと、各地のソヴィエトに立脚して、民衆層が支配者となる「ソヴィエト共和国」をつくろうと考えた。(p.436)

 

11月7日(ロシア暦10月25日)、レーニントロツキー(1879〜1940)の指導のもと、兵士と労働者の武装蜂起によって臨時政府は倒され、第2回全ロシア=ソヴィエト大会においてソヴィエト政権が樹立された(十月革命)  。新政権は「平和に関する布告」において、無併合・無償金・民族自決に基づいて即時講和交渉にはいるよう交戦国によびかけた。また「土地に関する布告」において、土地の私的所有を廃止し、農民による地主地奪取を容認した。(p.437)

 

『ソヴィエト政権と戦時共産主義

1918年1月には憲法制定会議が招集された。これはもともと二月革命の際に、臨時政府が招集を約束したものであった。選挙では住民の大多数を占める農民の票を得たエスエルが第一党となった。十月革命を認めない憲法制定会議を、ボリシェヴィキは武力を用いて解散した。3月には同盟国との間でブレスト=リトフスク条約が結ばれ、ソヴィエト政権はともかくも第一次世界大戦から離脱した。ウクライナなど多くの領土、それに多額の賠償金がその代償であった。このとき首都も、より安全な内陸部であるモスクワに移された。「ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ)」という名称も「ロシア共産党ボリシェヴィキ)」へと変わり、ヨーロッパ社会民主主義から一線を画することが明確にされた。(p.437)

 

十月革命を認めない諸勢力と共産党との内戦は、1918年春に本格的に開始された。そのきっかけとなったのは、チェコスロヴァキア軍団の反乱である。同軍団はもともとオーストリア帝国の投降兵からつくられており、シベリア鉄道でウラジヴォストークまで移動したのち、西部戦線に向かうことになっていた。だが、ウラル山脈の麓で現地ソヴイエト当局と衝突し、5月に反乱を起こしたのである。日本をはじめとする連合国も、チェコスロヴァキア軍団の救出を名目としてロシアに出兵し、干渉戦争(1918〜22)を起こした。(p.438)

 

共産党中央委員会の指導のもと、反市場原理を旨とする経済統制が敷かれ、チェカ(非常委員会)が政治的な異論や反革命活動に厳しい目を光らせ、トロツキーの手で赤軍もつくられた。1919年春には世界革命を進めるための国際共産党組織コミンテルン(第3インターナショナル)が結成された。(p.438)

 

ソヴィエト=ロシアに形成された社会主義体制は、のちにレーニンによって「戦時共産主義」とよばれた。それはドイツの戦時統制経済からおおいに学んでいた。また、1920年代末以降にスターリンが構築する社会主義体制の先駆けともなった。統制的であり権威主義的な体制であったが、民衆層から多くの人材が登用されたことも確かである。ここには総力戦体制がもっている、社会の平準化・民主化の側面があらわれていた。(p.438)

 

『ネップとソ連の成立』

レーニンはクロンシタット反乱を厳しく鎮圧する一方で、第10回共産党大会において市場原理の部分的復活を決めた。これが新経済政策(ネップ NEP)の始まりとなった。ネップのもとで市場原理はなし崩し的に復活し、商業で成功したネップマンとよばれる裕福な層があらわれた。(p.438)

 

ウクライナベラルーシ・ザカフカースの各ソヴィエト共和国が、ソヴィエト=ロシア(正式名称はロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国)と同盟を結ぶことで、1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連邦ソ連)が生まれた。各国は名目上は主権国家であったが、実際にはモスクワにある共産党中央委員会が全体を統治していた。(p.439)