詳説 世界史研究 第13章 アジア諸国の変革と民族運動

『中国分割の危機』

ロシアはフランス資本を利用しつつ1891年より東に向けてシベリア鉄道の敷設をおこなっていたが、清朝は96年に露清密約で日本に対抗するとともに、中国東北地方を横断し最短距離でウラジヴォストークに連結する東清鉄道の敷設権と経営権を認めた。(p.414)

 

列強はさらに借款を利用して鉄道敷設権・経営権を獲得するとともに沿線の鉱山採掘権も得た。こうして列強は租借地を中心として、ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イギリスは長江流域、フランスは仏領インドシナに隣接する広西省、日本は植民地とした台湾の対岸の福建をそれぞれ勢力範囲とし、自国の勢力範囲内で他国に権益を譲渡させないことを清朝に承認させた。(p.415)

 

国務長官ジョン=ヘイ(1838〜1905)は1899年に門戸開放・機会均等、1900年に領土保全を提唱するいわゆる門戸開放宣言を出した。列強もこれにいちおう賛意を唱え、それ以上の中国分割という事態には進まなかった。(p.415)

 

『変法運動』

変法とは清朝の伝統的な内政制度を変革するものであり、そうした変法構想は日清戦争前から存在した。そのなかでも広東省出身の康有為(1858〜1927)は西洋の学問や事情に接する機会が多く、変革の必要を感じていた。そこで康は公羊学を基礎としつつ仏教などを取り入れ、東西を統合した世界政府がくるという大同思想という未来構想を構築した。(p.415)

 

1898年になると光緒帝は康有為を総理衛門によび出して変法を論じさせ、6月には清朝中央の変法が開始された。科挙の答案用文体である八股文の廃止、京師大学堂の設置や立憲君主制を狙った制度局の設置といった急進的な諸改革が命じられると、諸官僚は反発してそれを無視し、実際にはほとんど実施されなかった。(p.416)

 

変革による混乱は西太后(1835〜1908)にとって座視できないものとなった。9月、改革の進展がみられないのに焦った光緒帝は西太后から実権を奪取しようとはかり、軍事力を握る衰世凱をだきこもうとしたが衰は同調しなかった。逆に衰から連絡を受けた西太后は先手を打って光緒帝を幽閉し、謹嗣同(1865〜98)らをとらえて処刑、康有為と梁啓超は日本に亡命した。かくして変法は3ヵ月あまりで挫折した。これを戊成の政変という。(p.416)

 

義和団

山東省におけるキリスト教布教に対抗して生まれた義和団は、「扶清滅洋」(清朝を扶け西洋人を撃滅する)を唱え、キリスト教会を破壊し、信者を殺害し、西欧文明の排斥のために鉄道電信を破壊した。(p.417)

 

義和団事件の和平交渉は列強の利害が錯綜したために長引いたが、1901年9月、出兵8カ国とベルギー・オランダ・スペインとあわせて11ヵ国と清朝の間で講和に関する最終議定書(北京議定書)が調印された。清朝が賠償金4億5000万両を39年間で支払うこと、北京公使館区域および北京と海港の間の地域への列強の駐兵権を認めること、責任者を処罰することなどが決められた。(p.417)

 

日露戦争

日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトが仲介役となってアメリカのポーツマスにおいて日本全権代表小村寿太郎らとロシア全権代表ウィッテらの間で講和交渉がおこなわれ、9月にポーツマス条約が結ばれた。この条約では日本は韓国における優越的地位、遼東半島南部(旅順・大連)の租借権、東清鉄道支線南部(南満州鉄道)の利権、南樺太の領有権を獲得した。しかし、賠償金を獲得できなかったため、国力の限界を伝えられていなかった日本国民の反発は強く、日比谷焼き討ち事件が発生して東京に戒厳令が敷かれるにいたった。(p.418)

 

日本の勝利は、インドをはじめとするアジアにおける民族運動を刺激するだけでなく、ロシアに抑圧されてきた民族を鼓舞し、さらには清朝の政治改革を促すことになった。しかし、日本は東北の利権を清朝に認めさせたことで、その後利権回収を進めていく中国との長期な対立を引き起こすことになり、また朝鮮の植民地化も推進していった。日露戦争は、軍事史的にも大きな転換をもたらした。(p.418)

 

日露戦争において有効性が認められた機関銃や重砲はその後ヨーロッパ諸国で大量生産され、第一次世界大戦における大量殺数に繋がった。また、海軍では大艦巨砲の重要性が認識され、英独の建艦競争を引き起こした。この大艦巨砲主義は日本を含む列強海軍の思想を拘束し、それは第二次世界大戦まで続いた。(p.419)

 

『日本の韓国併合

日露戦争は韓国植民地化の契機となった。1904年2月、日露戦争開始と同時に日本軍はただちにソウルを制圧してロシアの勢力を排除し、韓国政府に圧力をかけて日韓議定書を締結、朝鮮半島において日本軍が土地や労働者を利用することを可能にした。同年8月には第1次日韓協約を締結して日本側が推薦する財政・外交顧問の任命を認めさせ、朝鮮の従属化を進めた。(p.419)

 

朝鮮支配についての国際的な支持を固めると、日露戦争終結直後の05年11月、伊藤博文(1841〜1909)がソウルにはいり、武力を背景として第2次日韓協約を締結、韓国から外交権を奪い、統監府をソウルにおいて保護国化した。伊藤は初代統監となり、内政の支配を進め、また日本による経済開発も進展した。(p.419)

 

1907年になると皇帝の高宗はオランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に密使を派遣し韓国の危急を訴えるハーグ密使事件を起こした。しかし、密使の会議への参加は認められず密使事件に衝撃を受けた伊藤によって高宗は退位させられた。さらに第3次日韓協約が結ばれ、日本による内政の支配も確立し、韓国の軍隊も解散させられた。(p.419)

 

この間、義兵といわれる抵抗運動が盛んになっていた(反日義兵闘争)が、軍隊の解散によって元兵士が合流して活発化した。しかし、これは徹底的に武力で弾圧された。そのなかで09年伊藤がハルビン駅で韓国人の安重根(1879〜1910)に暗殺されると日本は朝鮮併合を決定し、10年8月に韓国併合に関する条約によって韓国は植民地化された。日本は朝鮮総督府をおき、強大な権限をもった朝鮮総督武断政治をおこない、軍事・警察力を用いて朝鮮の民族運動を弾圧した。(p.419)

 

清朝の改革』

義和団事件で敗北した清朝は、改革を求める中央・地方の有力官僚の意見を取り入れ、改革を開始した。これを光緒新政という。この改革は教育・軍事・官制・法制・実業振興など幅広い面にわたり、中央集権的な近代国家を創設することを目的としていた。(p.419)

 

教育改革としては、留学が推進され、とくに留学費用が欧米よりも安価な日本への留学は激増した。国内の教育制度としては1904年に鉄定学堂章程が出されて、日本をモデルにした新式学堂(学校)が設置された。さらに05年には1300年間実施されてきた科挙を廃止した。その結果、新式学堂の卒業生や帰国した留学生が重視されるようになった。(p.419)

 

科挙の試験は儒教の古典から出題していたが、科挙廃止後は儒教にかわる権威を創出することができず、清朝の求心力の低下に繋がった。また日本への留学生が革命運動に参加し05年には東京で中国同盟会を結成したように、留学によって王朝にもっとも敵対する人々が養成されることになった。(p.419)

 

1908年には憲法の離形ともいうべき憲法大綱が出された。これは日本の明治憲法をモデルとしたが、より皇帝権力を強化しており、地方エリートを中心とする立憲派の不満は大きかった。(p.420)

 

新政にかかわる費用は中央から支給されることはなく、地方で調達する必要があったため、農民の税負担は増大し、徴税の際にはさまざまなかたちで中間搾取がおこなわれた。しかも、学校の設立によって恩恵を受けるのはおもに地方のエリートであり、税負担のみが増大する農民の不満は高まり、地域内での対立が激化した。(p.420)

 

新政は幅広い分野で進められたが、中央集権化の試みは地方の反発を招いて失敗し、逆に科挙廃止にともなう権威の喪失や軍隊や財政にみられる中央の統制の弛緩など、清朝の求心性を失わせることになった。また、財政や国会開設問題などをめぐってさまざまなレベルで対立が激化し、不安定な状況が生まれた。改革は清朝の中央集権体制強化には向かわず、むしろその解体を促すことになった。(p.420)

 

辛亥革命

日本には大量に留学生が押し寄せており、革命派の活動の中心となった。そこで興中会と黄興(1874〜1916)  ・宋教仁(1882〜1913)らの湖南人を中心とする華興会、蔡元培(1868〜1940)・章炳麟(1869〜1936)らの浙江人を中心とする光復会などの革命派の団体が日本人の宮崎滔天(1871〜1922)の仲介で合流することになり、1905年8月、東京で中国同盟会が成立した。同盟会は三民主義を掲げ、『民報』を創刊して革命運動を宣伝し、各地で武装蜂起をおこなった。(p.421)

 

清朝中央は中国の国家統合の維持のために、辺境地域への鉄道建設を計画していた。その際に辺境の鉄道建設は採算がとれないため全国的な鉄道整備が必要となり、そのために鉄道全体が国有化されることになった。これに対し、利権回収運動によって外国から鉄道利権を回収して民間資本による鉄道建設を計画していた各地域は反対、鉄道国有化反対運動を展開した。とくに四川においては四川保路同志会が結成されて激しい反対運動を展開し、成都での衝突を契機として各地で武装蜂起が発生して混乱状況となった(四川暴動)。(p.422)

 

宋教仁らは湖北において武装蜂起を準備しており、1911年10月10日、武昌において革命派の浸透した新軍の兵士が武装蜂起し、他の新軍も合流して武漢(武昌・漢陽・漢口)全体を占領、軍政府を設置して清朝からの独立を宣言した。これが辛亥革命の始まりとなり、11月までに全国24の省のうち、華中・華南を中心に14省が独立を宣言するにいたった。これら独立した諸省をまとめる新政府の設立は難航したが、12月に孫文が帰国すると、南京に集まっていた各省の代表は孫文を臨時大総統に選出し、翌1912年1月1日、中華民国の建国を宣言、南京に臨時政府を成立させた。ここにアジアで最初の共和政の国家が成立した。(p.422)

 

辛亥革命の勃発にさいして、清朝はこれを鎮圧するために、北洋軍の実力者である袁世凱(1859〜1916)を登用した。袁世凱が軍事力で革命派を圧倒するなか、中国の安定のために袁世凱に期待するイギリスの仲介で革命派と停戦となり、南北の交渉がおこなわれ、清朝皇帝の退位と袁世凱の臨時大総統職の就任で南北双方が合意し、1912年2月宣統帝(溥儀、位1908〜12)の退位によって清朝は滅亡し、2000年以上続いた皇帝制度は終焉を迎えた。(p.422)

 

中華民国初期の政治と周辺民族』

1912年3月に袁世凱は臨時大総統に就任したが、孫文が要求していた南京ではなく北京で就任し、中華民国北京政府が成立した。また、就任直後に革命派の主導する臨時参議院が臨時約法を制定したが、それは大総統の権限を大きく制約するものであった。翌年の国会議員選挙で宋教仁を中心とし、中国同盟会をその前身とする国民党が躍進すると、袁世凱は宋教仁を暗殺して議会における主導権を握った。さらに列強から借款を受けて基盤を強化し、反対派の地方長官を罷免した。こうした袁世凱の動きに対し、反対派の諸省は蜂起したが(第二革命、1913年7月)袁世凱に鎮圧され、孫文は日本に逃れて中華革命党を結成することになる。(p.422)

 

袁世凱に従っていた軍事指導者は各省の長官としてそれぞれの地域において割拠したため、これらを軍閥という。彼らは自らの支配地域において近代化政策を推進したが、その軍隊を養うために重税が課せられ、民衆の負担は大きかった。(p.422)

 

1920年代にモンゴルではチョイバルサン(1895〜1952)らによる革命運動が展開され、中華民国の影響力を排除して21年に独立し、24年に成立したモンゴル人民共和国のもとで社会主義化するが、80年代末までソ連の影響力を強く受けることになった。(p.423)

 

『インドの財政負担と民族的覚醒』

イギリスの植民地支配の進展のなかで、ヨーロッパの思想がインドにはいり込むことになったが、それに対して早くから宗教改革運動が生じていた。偶像崇拝寡婦の殉死慣行(サティー)を批判し、ブラフマ=サマージ協会とよばれる宗教改革組織の設立に繋げたラーム=モーハン=ローイ(1772〜1833)や、その流れを汲むラーマクリシュナ(1836〜86)、ヴィヴェカーナンダ(1863〜1902)などがヒンドゥー教の改革をめざした。イスラームに関しても、サイイド=アフマド=ハーン(1817〜98)がイスラーム教徒のための近代教育を重視し、のちのアリーガル大学に繋がる高等教育機関を設立した。(p.424)

 

『民族運動の開始』

民族運動の発火点となったのは、ヒンドゥーイスラームの両教徒を反目させることを意図した1905年のベンガル分割令の発表であった。ベンガル民族としての一体性をもつっ地域を、イスラーム教徒の多い東側とヒンドゥー教徒の多い西側とに二分し、運動の分断をはかろうとした法令である。これに対し国民会議では、従来の穏健派にかわってティラク(1856〜1920)らの急進派が主導権を握り、激しい反対運動を展開した。06年にベンガルカルカッタで開かれた大会では、英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育の4網領を決議し、イギリスに真正面から対抗する姿勢が示された。一方、イスラーム教徒は、ベンガル分割令によって多数派となる州が誕生する利点を説くイギリス人総督の説得により、06年に親英的な全インド=ムスリム連盟を結成することになった。のちにインドとバキスタンが分離独立することになる契機をつくったものであり、分割統治の典型であった。(p.425)

 

『東南アジアにおける民族意識の形成』

1908年、原住民医学校の卒業生を中心に、教育の振興とジャワ人の調和ある発展をめざすブディ=ウトモ(最高の英知)が設立された。また11年には辛亥革命の成功に高揚した中国系住民の活性化に対抗し、原住民ムスリム有識者が中心となり、イスラーム同盟(サレカット=イスラーム)を結成した。(p.425)

 

ホセ=リサール(1861〜96)は、1887年に「我に触れるな」を著し、フィリピンにおける植民地支配に大きな権限を有した修道会や修道士の堕落ぶりを赤裸々に描いた。こうした運動のなかでフィリピン民族意識が形成され、リサールは1892年にフィリピン民族同盟を結成した。リサールはスペイン当局に逮捕され、流刑の後処刑された。(p.426)

 

1896年にスペイン当局がカティプーナンの存在に気づくと、ボニファシオはメンバー全員に蜂起を命令した。フィリピン革命の始まりである。スペイン当局との戦いが始まると、カティプーナンの会員であったマニラ近郊のカビテの町役人階層出身のアギナルド(1869〜1964)が、カビテの解放を成し遂げた。しかし、スペイン本国から援軍が到着すると、徹底抗戦を唱えるボニファシオと町役人階層の支持するアギナルドの間で、対立が生じた。97年3月アギナルドは革命政府の大統領に就任し、5月ボニファシオを処刑した。その後アギナルドはスペインと講和し、香港へ亡命した。1898年にアメリカ=スペイン(米西)戦争が始まり、アメリカが勝利すると、フィリピン独立の好機とみたアギナルドはアメリカ軍艦で帰国した。アギナルドは革命最高指導者に迎えられた。(p.426)

 

アメリカは、98年12月のスペインとのパリ講和条約を締結し、フィリピンの領有権を獲得した。99年アメリカとフィリピンの間でフィリピン=アメリカ戦争が始まり1901年アギナルドは、アメリカに降伏した。(p.426)

 

伝統的知識層の出身であったファン=ボイ=チャウ(潘佩珠、1867〜1940)は、1904年にフランス打倒を目的とする維新会を組織し、王族の血統を引くクオンデ(彊抵、1882〜1951)を会主とした。05年チャウはベトナム独立への援助を求めて、日本に渡った。日本では中国から亡命していた梁啓超や日本のアジア主義者と交流し、彼らから人材の育成が急務であることを説かれた。チャウはこの主張を受け入れ、ベトナム青年に日本留学をよびかけた。08年までに200人を超えるベトナム人が日本に留学した。これをドンズー(東遊)運動とよぶ。フランスは日本への取締りを要求し、09年を境に東遊運動は崩壊した。その後ファン=ボイ=チャウは、中国革命に期待をかけて中国に渡った。辛亥革命が起こると、彼は1912年広州で、ベトナム共和国の建設を唱えて光復会を設立した。光復会は中国国境付近からゲリラ闘争を展開したが、フランスに弾圧された。(p.426)

 

西アジアの民族運動と立憲運動』

帝国主義列強の政策やこれに従属する専制的な政権を鋭く批判したアフガーニーの思想は、エジプトのウラービー運動やアラブ人のイスラーム改革思想、イランのタバコ=ボイコッ下運動などに大きな影響を与えた。(p.427)

 

立憲制の回復によって帝国の再建をめざす青年知識人の秘密結社がイスタンブルに結成され、彼らは「統一と進歩団」を名乗った。メンバーの多くは弾圧を受けてヨーロッパ諸国に亡命し、宣伝活動を展開した。「青年トルコ人」とは「青年イタリア」などに倣って、ヨーロッパで生まれた呼称である。日露戦争と1905年のロシア革命後、運動はオスマン軍の青年将校の間にも浸透し、行動を起こした部隊は、08年政府に迫って憲法を復活させた。これを青年トルコ人革命とよび、新しい政治体制を第二次立憲制という。言論の自由化が進むなかで、トルコ民族主義の潮流も生まれた。(p.427)

 

カージャール朝治下のイランでは1891〜92年、アフガーニーのよびかけに応えるように、政府がイギリスの会社に与えたタバコの生産から輸出におよぶ独占利権に反対するタバコ=ボイコット運動(1891〜92)が起こった。この運動によってイラン人の民族意識は高まり、やがて専制と列強への従属に反対するウラマーイスラーム教の法学者)  、バザール商人、都市民を中心に、国民議会開設を要求する運動は大きな流れとなった。その結果、1906年に国民議会が開かれ、翌年初めにはフランス人権宣言の影響を受けた憲法基本法が発布された。これを立憲革命(1905〜11)という。(p.428)