詳説 世界史研究 第13章 世界分割と列強の展開

『アフリカの植民地化』

リヴィングストンは布教のためザンベジ川沿いに内陸部に向かい、スタンリーはザイール川沿岸を調査した。(p.408)

 

国際社会の調整役を任じていたドイツのビスマルクは、コンゴ領有をめぐる紛争が起こると、その調停と植民地設立の原則の規定のために、ベルリンで関係国の国際会議を開催した(ベルリン=コンゴ会議、ベルリン=西アフリカ会議ともよばれる  1884〜85)。会議はベルギー国王レオポルド2世(位1865〜1909)の私有領としてコンゴ自由国を承認したほか、植民地設立の原則として、実効支配と勢力範囲原則の二大原則が合意された。(p.408)

 

欧米諸国間の合意の結果、ヨーロッパ諸列強はアフリカに殺到し、抵抗する現地住民を武力で制圧して、瞬く間にほぼ全アフリカを植民地化した。かろうじて独立を守ったのはアメリカの解放奴隷を入植させて建国したリベリア共和国と伝統的なキリスト教エチオピア帝国だけであった。(p.409)

 

現地の住民は一方的に欧米諸国の攻勢に屈服したわけではなく、自らの固有の文化や伝統を守ろうとして、多様なかたちで激しい抵抗運動を展開した。1880年代、エジプトでウラービーが「エジプト人のためのエジプト」を掲げて運動を起こし、イギリスによって武力で押さえ込まれたのもその1つであった。(p.409)

 

これとほぼ同時期にエジプトの属領とされたスーダンでは、ムハンマド=アフマド(1844〜85)がマフディー(救世主、「正しく導かれた者」の意で、イスラーム世界では古くから社会的な不満が高まると出現することがあった)を称し、聖戦を唱えた。マフディー派は急速に勢力を拡大し、1883年にはエジプトから来援したイギリス軍を破り、商業中心地ハルトゥームを包囲した。太平天国鎮圧を指揮して名をあげ、その後スーダン総督などの経験があったゴードンがイギリス政府の要請で交渉に赴いたが、85年にマフディー派に殺害された。アフマドはマフディー国家を樹立するが、その直後になくなった。後継のマフディー国家は一時勢力を拡大したが、98年キッチナー将軍指揮下の強力なイギリス・エジプト軍に制圧された。(p.409)

 

同時期に西アフリカのサモリ帝国によるフランスへの武力抵抗があり、20世紀にはいってからは1904年にドイツの南西アフリカ領での土地収奪への抗議の蜂起、翌年には東アフリカ領での「マジマジ」の蜂起があった。(p.409)

 

『太平洋地域の分割』

18世紀半ばには、イギリスはオーストラリアに囚人を送るようになったが、19世紀半ばに金鉱が発見されて以降、流刑は廃止され、通常の移民が急増して他の植民地と変わりがなくなった。イギリス本国との経済交流も活性化し、オーストラリアの重要性は高まった。1850年、イギリスはオーストラリアに自治権を認めほぼ普通選挙権に基づく議会政治がおこなわれた。(p.410)

 

1901年、オーストラリアの6植民地は連邦にまとまり、女性選挙権も認められたが、ヨーロッパ人以外の移民を事実上排除する白豪主義が採用され、70年代にいたるまでこの排他的制度が維持された。(p.411)

 

ニュージーランド1840年にイギリスの植民地とされ、マオリ人から土地を奪い、彼らの抵抗を制圧した。19世紀後半には、オーストラリアから移入した牧羊業が発展し、世紀末には冷凍船によってイギリスに食肉などを輸出できるようになった。オーストラリアと同様に、金鉱の発見で中国系労働者の移入が増えたが、非ヨーロッパ人移民は認めず、ヨーロッパ人中心の統治体制が成立した。なお議会には少数のマオリ人議員の枠が認められた。(p.411)

 

19世紀末にはアメリカ=スペイン戦争の結果、フィリピン・グアムがアメリカに割譲され、また他のスペイン領諸島もドイツに売却されるなどして、太平洋地域のスペイン領は一掃された。アメリカはさらに、40年より立憲王制のもとに統一されていたハワイも98年に併合した。(p.411)

 

ラテンアメリカの従属と抵抗』

ブラジルの場合は、ナポレオンの圧迫を受け、ポルトガルジョアン(位1816〜26)がイギリス海軍の助けを借りて、ブラジルに逃れて以来、ナポレオンの失脚後も本国との連合王国体制が続いていた。1820年ポルトガル自由主義革命が起こり、立憲君主制に移行すると、ジョアン6世が帰国したのを受けて、ブラジルでは22年に独立を宣言し、ペドロ1世  (位1822〜31)  が皇帝となった。(p.412)

 

メキシコでは、アメリカ合衆国との戦争に敗北した結果、国内改革の必要性が叫ばれるようになり、1854年自由党のファレス(任1858〜72)政権によって教会の土地所有を禁止する改革などが進んだが、保守派や軍の反発を受け、内戦が勃発した。60年に自由党系がメキシコ市の占領に成功すると、保守派はフランスのナポレオン3世に介入を働きかけた。ナポレオン3世は、オーストリア大公マクシミリアンをメキシコ皇帝に擁立したが、南北戦争後のアメリカ合衆国からの強い反発を受け、失敗に終わった。その後のメキシコでは、地方軍閥の割拠状態から、ディアス(任1877〜80、84〜1911)が政権を掌握し、鉱山開発などによる近代化を進めた。しかし、ディアス政権が長期化するにつれ、独裁化の様相を呈したため、1910年に自由主義者のマデロ(任1911〜13)と農民指導者のサパタ(1879〜1919)がメキシコ革命を起こし、ディアスを追放した。(p.412)

 

メキシコ革命の結果、1917年に制定された憲法では、政教分離、土地改革の推進、天然資源への外資の進出規制、8時間労働制、最低賃金ストライキ権の保証などが明記された。この革命は、それまでのラテンアメリカで維持されてきたクリオーリョ中心の政治を動揺させ、労働者や農民の参加を助長するポピュリズムの政治の到来を意味し、他のラテンアメリカ諸国にも大きな影響を与えた。(p.412)

 

『列強の二極分化』

ロシアは工業化・近代化のための資本を求めてフランスとの提携に向かった。ヨーロッパ列強のなかで唯一共和政をとり、フランス革命の伝統を掲げるフランスと、もっとも反動的帝国といわれたロシアとの提携交渉は、露仏同盟にまとまるまで1891〜94年とかなりの時間を要したが、それによってフランスは国際的孤立から脱しロシアにはフランスから鉄道建設や近代工業のための資本が流入するようになった。(p.413)

 

ドイツの3B政策は、地中海への出口確保を重視するロシアとイギリスの接近をもたらし、両国は1907年英露協商を結んで、両国の争点となっていた西アジアでの勢力圏を画定した。この結果、イランは両国間で二分され、アフガニスタンはイギリスの優位となり、チベットには介入せず現状のままとすることが決まった。英仏協商と英露協商は連結して三国協商とよばれ、当初はアジア・アフリカの3国間の利害調停のための合意だったが、やがてドイツの世界政策に対抗する性格をもつようになった。(p.414)