詳説 世界史研究 第13章 帝国主義と列強の展開

『第2次産業革命帝国主義の成立』

とりわけ重要なのは、従来の石炭と蒸気力を動力源にした繊維などの軽工業や製鉄業などの分野を中心とした工業化を超えて、ドイツ・アメリカで、工科大学や企業の研究所・実験施設などでの近代科学の成果や発見を応用し、石油電力を新たなエネルギー源とする新規の電機・重化学分野を開発・発展させたことである。各種の合成染料や化学薬品、フィルムなどの製品を開発した合成化学、電信・電話・発電機・内燃機関などの発明をもとに発展した電機工業、さらにアルミニウムなどの新しい軽金属を含む非鉄金属生産などの一連の新工業部門がそれで、第2次産業革命とよばれている(電話・電灯などを開発・改良したアメリカのベルやエディソン、ディーゼルエンジンを開発したドイツのディーゼルなどがその代表例である)。(p.396)

 

『大都市化と先進地域内の格差』

工業化・大都市化は、農村から都市への人口移動を促した。ドイツやフランスでは20世紀にはいると農村部での労働力不足が顕著になり、大農場経営では国外からの農業労働者(季節労働者)の導入が不可欠になった。一方、工業化が遅れた東欧・南欧地域ではなお農業が圧倒的に基幹産業であり、人口増によって農地不足が深刻になった。そのため、19世紀後半からこの地域からアメリカへの移民が増加した。1880年代、ヨーロッパのアメリカへの移民送り出し国の第1位はドイツであった。しかし90年代以降、ドイツからの海外移民希望者は急速に減少し、かわってロシア・オーストリアあるいはイタリアからの移民が、ヨーロッパからの移民の多数を占めるようになった。それはこの間に西欧・北欧と東欧・南欧の経済格差がさらに広がっていることを示していた。なお東欧地域からの移民には、経済的理由からだけではなく、ロシアのポグロムのような宗教的・民族的迫害から逃れるユダヤ人など難民に近い性格の移民が含まれていたことも、西欧・北欧からの移民との違いである。(p.397)

 

『世紀末文化とベルエポック』

西欧を中心としたヨーロッパの繁栄を、第一次世界大戦の衝撃とその後の政治的・社会的変動を経験した人々はヨーロッパ市民社会の黄金期と振り返り、「ベルエポック」(「よき時代」あるいは「麗しい時代」)とよび、美化するようになった。(p.398)

 

帝国主義帝国主義論』

イギリスの自由主義的経済学者ホブソン(1858〜1940)は帝国主義を分析し、それが国民の意向を無視して少数の資本家の利益追求となっている実態を批判した。彼の分析に刺激されて帝国主義の解明に取り組んだのは、第2インターナショナルのマルクス主義者であった。彼らは1890年頃にはすでに社会主義的労働運動の理論的主導権を握り、資本主義の崩壊と社会主義社会の到来は間近と考えていた。しかし、資本主義は崩壊するどころか成長を続け、マルクス主義者のなかにもベルンシュタイン(1850〜1932)のように、資本主義の早期崩壊はないとして、改革路線を重視すべきとする「修正主義」を唱える者もあらわれた。(p.399)

 

『欧米列強の帝国主義と国内政治』

19世紀半ば、イギリスは白人入植地やインドなど多くの植民地を支配下におさめ、「世界の工場」といわれた圧倒的工業力と本国と植民地の基幹シーレーン海上交通路)を防衛できる強力な海軍力を背景に、自由貿易を掲げて市場開放・不平等条約を強要し、アジア地域での貿易拠点の設置や市場拡大を進めていた。(p.399)

 

イギリスにとって植民地帝国維持のコスト軽減は重要な課題でありつづけ、1867年カナダを連邦として内政自治を認め自治領とし、20世紀にはいってからは1901年にオーストラリア連邦を、07年にニュージーランドを、さらに10年南アフリカ連邦自治領に昇格させて、帝国支配の支えとした。(p.400)

 

1875年、スエズ運河経営の大株主であったエジプトが財政難から運河株式の売却を迫られると、ディズレーリ保守党政府はその株式を購入して運河支配に乗り出し、77年にはインド帝国を成立させ同君連合としてイギリスと結びつけた。(p.400)

 

その後もイギリスはスエズ運河を含む東地中海地域でのイギリスの優位を確保する政策を継続し、ロシア=トルコ戦争(1877〜78)に介入してキプロス島を獲得した。ディズレーリの強硬な対外政策を批判して後を継いだ自由党グラッドストンも、エジプトでのウラービーの反英蜂起に直面すると、82年には武力でエジプトを占領しインドへのルートの掌握を確実にした。(p.400)

 

1890年代半ばの選挙で保守党が大勝すると、植民地拡大を主張するジョゼフ=チェンバレンが植民地相に就任し、アフリカ縦断政策を推進してファショダ事件をめぐってフランスと対立した。フランス側の譲歩でこの危機を乗り切ると、さらにケープ植民地首相セシル=ローズの拡張政策を引き継いで、99年に南アフリカ(南ア、ブール)戦争を起こした。戦争はブール人の抵抗で予想外に長引き、国際的にも非難された。(p.400)

 

イギリスの議会政治は1860年代後半から、グラッドストン率いる自由党とディズレーリの指導する保守党の二大政党が交替で政権を担うシステムが定着し、67年・84年の第2回・第3回選挙法改正で都市労働者の選挙権が認められ、議会制民主主義の枠組みが固められた。また80年代以降、初等教育の義務化、さらに無償化が導入された。80年代後半にグラッドストンが懸案であったアイルランド自治問題解決をめざしたが、党内の反対派が党を分裂させる事態になり類挫した。(p.400)

 

90年代後半からは労働条件改善を求める労働者の大規模ストライキが起こり、労働運動や社会主義者の活動が高まった。労働組合ウェッブ夫妻(夫1859〜1947、妻1858〜1943)やバーナード=ショー(1856〜1950)らの穏健な社会改革を唱えるフェビアン協会などの社会主義組織は、1900年に労働代表委員会を結成し、06年にはこれが労働党に発展した。(p.401)

 

1908年に成立したアスキス内閣のもとで、ドイツの海軍拡張に対抗する海軍力増強と老齢年金制度や国民保険制度の社会政策費の財源を、土地所有者への課税に求めるロイド=ジョージ財相(1863〜1945)の予算案(人民予算)が提出された。土地所有者の多い上院が否決すると、政府は10年に2度の選挙で勝利して、人民予算を通過させ、翌年には下院の法案決定権が上院に優先することを確定した議会法も可決させた。(p.401)

 

政府は14年長年の課題であったアイルランド自治法案を成立させたが、第一次世界大戦勃発によってその実施を延期した。それに反発して、アイルランド独立を唱えるシン=フェイン党は大戦中の16年、武装蜂起(イースター蜂起)したが鎮圧された。しかし、イギリス当局の厳しい弾圧処置は武装蜂起に懐疑的であったアイルランド人に衝撃を与え、シン=フェイン党はその影響力を回復した。(p.401)

 

1880年代末、保守派・反共和派は対独強硬派として国民に人気があった元陸軍大臣ブーランジェ(1837〜91)に注目して、彼を反共和派の指導者にかつぎあげクーデタを狙う動きに結集した(ブーランジェ事件)。しかし、ブーランジェの遂巡もあって政府はこの危機を乗り切った。(p.401)

 

反共和勢力はなお強い影響力をもち、90年代後半にはユダヤ系将校ドレフュス(1859〜1935)のスパイ容疑の裁判判決をめぐって、共和派と反共和派がそれぞれドレフュス冤罪派とドレフュス有罪派に分かれて全面的に対決し、世論を二分して争うドレフュス事件へと発展した。保守派の反ユダヤ主義的傾向を露呈させた対立は、ドレフュスの冤罪が明らかにされて共和派の勝利に終わったが、これによって共和派の結束も固まって共和国防衛を掲げる急進社会党が結成され、諸派に分立していた社会主義者も1905年フランス社会党に結集した。さらに、同年には政教分離法が制定されてカトリック教会の政治的影響力は後退し、共和制は最終的に政治的安定を確保した。以後第一次世界大戦まで、のちにベルエポックと回顧されるような経済的文化的成熟期にはいった。(p.402)

 

対外的にはフランスは、1890年まで国際的に孤立をよぎなくされたが、80年代にはチュニジア保護領に、さらに清仏戦争(1884〜85)を契機としてフランス領インドシナ連邦を結成するなど、90年代半ばまでに海外領土を10倍に増大させていた。さらに94年には露仏同盟を結んで国際的孤立から脱するとともに、ロシアへの資本提供によってその工業化を支援し、1904年にはイギリスとの間で海外勢力圏の相互承認を約束した英仏協商をまとめるなど、強国としての地位を挽回した。(p.402)

 

1888年は3皇帝の年とよばれるように、ヴィルヘルム1世が、さらに後継の皇帝も即位後3ヵ月で死去したため、一挙に孫の世代の若いヴィルヘルム2世(位1888〜1918)が皇帝となった。そのため、新時代の幕開けを期待する声が高まり、新帝は90年にビスマルクを引退させ、国内では社会主義者鎮圧法の廃止、また外交ではロシアとの再保障条約の不更新を決定し、より能動的な政治姿勢に転じた。(p.402)

 

1890年代後半から世界的な景気回復の波に乗って、ドイツの工業は飛躍的発展を遂げ、20世紀初頭には鉄・鉄鋼生産でイギリスを追い抜き、とりわけ第2次産業革命の中心的工業分野である電機・重化学部門では世界を先導する地位についた。こうした成長を基礎に工業労働者層は増えつづけ、その結果ヴィルヘルム2世の期待に反して社会民主党も拡大し、1912年の帝国議会選挙では第一党になった。それと連動して、社会民主党の内部ではマルクス主義の唱える資本主義の早期崩壊に疑問をいだき、現体制の議会での労働者層の政治的発言権の拡大と、労働条件や生活水準の改善が、党の課題としては革命の準備よりも重大であると主張するベルンシュタインなどのグループがあらわれた。これは修正主義とよばれ、革命路線を護ろうとするローザ=ルクセンブルクなどの左派との対立が起こり、社会主義運動内の亀裂を深めた。(p.403)

 

巨大化する新規産業部門や商業、帝国・自治体行政部門に従事する新中間層も増え、農業部門も東欧諸地域から季節労働者を導入するようになると、市民層のなかには国外ドイツ人を統合して、国民国家を完成させようとするパン=ゲルマン主義運動も広がった。(p.403)

 

1890年代半ばから皇帝は「世界政策」掲げ、「陽のあたる場所」を求めて植民地再配分をイギリスに要求すべく、ティルピッツ(1849〜1930)を海相に登用してその手段となる海軍の大拡張に乗り出した。(p.403)

 

1890年代はシベリア鉄道建設が国家事業として着工され(全通は1904年)、94年に若いニコライ2世(位1894〜1917)が即位するなかで、ウィッテ首相(任1905〜06)はフランス資本の導入による工業化政策を推進した。(p.404)

 

大臣や総督など有力高官の暗殺事件も多発し、抗議の大衆運動に促されて国外に亡命していた社会主義者自由主義者の政治活動も活性化し、ロンドンではプレハーノフ(1856〜1918)やレーニン(1870〜1924)などによって社会民主労働党が結成された。同党は結成後党員に非合法活動を求めるレーニンらのボリシェヴィキ(多数派)と幅広い大衆の参加を求めるメンシェヴィキに分裂したが、ナロードニキ系のエスエル党や自由主義者も組織を結成し、宣伝活動を開始した。(p.404)

 

満州をめぐる日本との対立は1904年、ついに両国の戦争(日露戦争)に発展した。戦争はロシア国内で批判が多く、専制体制の倒壊を期待して日本の勝利を願う声すらあった。戦争ではロシア側が後退を続けるなかで、05年1月初め、首都ペテルブルクで憲法改正など政治改革を求める労働者とその家族10万人の誓願デモが宮殿に向かうと、警備隊が発砲して多数の死傷者を出す事件が起こった(血の日曜日事件)。(p.404)

 

皇帝政府はこうした情勢を制御できず、日本との講和交渉にはいり、8月ポーツマス講和条約を締結した。しかし第1次ロシア革命といわれる大衆運動は自由主義者も加わり、全国民的な広がりをもった運動になっており、もはや力でおさえることができなくなった。皇帝はウィッテなどの勧告を受けて、十月勅書を発し、国会(ドゥーマ)開設を認めた。自由主義者立憲民主党などの政党を創設してそれに対応した。しかし自治組織ソヴィエト(評議会)に結集した労働者の一部は革命をさらに推し進めることを主張して、自由主義者から距離をとり始めた。(p.404)

 

1906年、欽定憲法が発布され、ウィッテにかわって農民運動弾圧と並んで農村の近代化を唱えたストルイピン(1862〜1911)が首相に登用された。彼は農村のミール共同体にかわって、独立した自営農創出をめざす土地改革と、それと連動した地方自治の促進を構想していた。国会での審議の遅れや農民の抵抗でストルイピンの改革は滞り、11年彼自身が暗殺されて改革は挫折した。(p.404)

 

キューバのスペインからの独立運動への支持をアメリカの新聞が煽情的に書き立てていたこともあって、1898年、共和党のマッキンリー大統領(任1897〜1901)はアメリカ軍艦メイン号爆沈事件をきっかけにスペインに宣戦布告した(アメリカ=スペイン(米西)戦争)。その結果、プエルトリコとグアムをスペインに割譲させ、さらにフィリピンも領土とした。また、同じ年、ハワイ島を併合し、カリブ海と太平洋に領土を拡大した。(p.406)

 

キューバは独立したものの、プラット修正条項(1901)によって事実上アメリカの保護国となった。(p.406)

 

1899年と1900年の2回にわたって、ジョン=ヘイ国務長官(任1898〜1905)は、中国分割を進める列強に対して、中国での門戸開放通牒を発し、通商上の機会均等と中国の領土的・行政的保全を求めた。(p.406)

 

マッキンリーの暗殺で副大統領から昇格したセオドア=ローズヴェルト(任1901〜09)はさらに明確に帝国主義政策を推し進めた。カリブ海地域には、政治・財政不安が生じたときには軍隊を派遣して積極的に国際警察の役割をはたした(「根棒外交」)。03年にはコロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河建設の権利を獲得した。(p.406)

 

1900年代から10年代には革新主義とよばれる潮流が勢いを増していた。それは都市の中産階級を中心に高まった気運で、州や市の政治腐敗を正し、大企業の不正や横暴を告発し、さらには飲酒や売春といった道徳的退廃を攻撃した。(p.406)

 

ローズヴェルトはシャーマン反トラスト法(1890)を適用して大企業の市場支配を阻止し、国民の健康のために食品や薬剤を規制する法律を制定し、また、自然保護や資源保護の立法化をおこなうなど革新主義にそった改革を実行した。続く共和党のタフト大統領(任1909〜13)は革新主義を継承しつつ、力の外交にかわって貿易と海外投資を積極的におこなう「ドル外交」を展開した。(p.406)

 

(ウィルソンは)外交においては、独裁政治に苦しんでいる地域に優れたアメリカ流の民主主義を広めることが合衆国の使命であるとする「宣教師外交」を進めた。(p.407)

 

『第2インターナショナルの結成と活動』

1889年、パリで開催されたフランス革命100周年に各国の社会主義者が集まり、第2インターナショナル(1889〜1914)創立に合意した。(p.407)

 

第2インターナショナルではマルクス主義を最初に党綱領に取り入れ、組織的にも労働組合生活協同組合を傘下にもつドイツ社会民主党が指導的役割を演じたので、加盟の社会主義政党の多くもマルクス主義を指導思想として受け入れた。(p.407)