詳説 世界史研究 第12章 東アジアの激動

清朝体制の動揺』

18世紀、清朝治下の経済的繁栄や統治の安定もあり、人口は約1億6000万から3億5000万へと2倍あまりにまで増大した。こうした人口の増大にもかかわらず、単位土地面積当たりの農業生産性はあまり上昇しなかったため、大規模な移民が発生した。漢族を中心とする移民は四川省、ついで華中内陸部の山地や西南諸省の少数民族居住地域、中国東北部、台湾などに吸収されていった。山地の開発に関しては、「新大陸」から導入されたトウモロコシやサツマイモなどが大きく寄与した。(p.381)

 

白蓮教徒の乱にさいして、清朝の八旗・緑営といった正規軍は十分に機能せず、清朝は地方の郷紳などのエリート層に地域的な義勇軍である団練・郷勇を編制させ、彼らの活躍によって反乱は終息を迎えた。(p.381)

 

『ロシアの東方進出と清朝

19世紀半ばになるとロシアの東方進出は再開、1847年に東シベリア総督となったムラヴィヨフ(1809〜81)のもと、極東の調査・探検も進み、アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856〜60)に乗じて58年に清朝との間にアイグン条約を結び、アムール川以北の土地を獲得した。ついで60年の北京条約によってウスリー川以東の土地を獲得して沿海州とし、61年にはウラジヴォストーク軍港の建設を開始した。(p.383)

 

1860年代に中国西北部ではイスラーム教徒の反乱が勃発、新疆においてはコーカンド=ハン国出身の武将ヤークーブ=ベグ(1820頃〜7)が天山南路を占領し、さらに天山北路に進出するにいたった。これに対してロシアは71年に出兵してイリを占領、一方の清朝は78年までにイスラーム教徒の反乱を平定してイリを除く新疆を制圧した。(p.383)

 

露清両軍が対時して緊張が高まるなか、曾紀沢(曾国藩の息子)がロシアに派遣され、81年にペテルブルク条約(イリ条約)を締結、イリは返還され、その後、西部国境も画定する。こうしたロシアの進出に対し、清朝は84年に新疆省を設置、漢族の新疆への移民を奨励し、イスラーム教徒に漢語教育をおこなうなど、支配強化を進めていく。(p.383)

 

『アヘン貿易とアヘン戦争

アヘン戦争  (1840〜42)では、軍事技術と戦術面で卓越するイギリス側は海陸で圧倒的な勝利をおさめ、広州、度門、寧波をはじめとする沿海の主要な海港をさしたる損害もないままつぎつぎと占領、長江を遡って鎮江をおさえて大運河を封鎖、北京への食糧供給ルートを遮断した。さらにイギリス艦隊は南京に迫ったため、清朝側はついに屈服、南京条約(1842)を締結するにいたった。この南京条約では広州に加えて上海、寧波・福州・度門の5港の開港、香港島の割譲、公行の廃止、賠償金の支払い、清朝・イギリスの官憲の対等交渉などが決まったが、実際に条約で開かれた開港場における貿易システムが整えられていくのは開港後のことになる。(p.385)

 

『アロー戦争と不平等条約体制の確立』

アヘン戦争後の1843年にイギリスとの間に結ばれた五港通商章程および虎門寨追加条約によって清朝領事裁判権を認め、協定関税によって関税自主権を失い、さらに片務的な最恵国待遇を認めることになった。翌年に締結した、アメリカとの望夏条約、フランスとの黄捕条約も同様の内容であり、清朝はいわゆる不平等条約を認めることになったが、当時はまだその問題に気づいていなかった。(p.385)

 

1856年3月にクリミア戦争終結した後、同年10月のアロー号事件を口実にイギリスは出兵をおこなった。また共同出兵を求められたフランスも、広西省でフランス人宣教師が殺害されたことを口実に派兵した。英仏連合軍は広州を占領、ついで天津に迫ったため、清朝側では恭親王らの和平派が主導権を握り、交渉がおこなわれて58年に天津条約が結ばれた。しかし、英仏連合軍が引き揚げると清朝では主戦派が台頭し、天津条約批准にさいして英仏全権が清朝側の反対を押し切り白河を遡行すると、清朝側が発砲して撃退した。かくして戦争は再開して英仏連合軍は北京を占領、離宮円明園を略奪した後、破壊して放火した。咸豊帝は熱河に逃亡し、恭親王らがイギリス・フランス両国全権と交渉にあたり、60年に北京条約が締結された。この天津・北京条約では、清朝側は賠償金を支払ったほか、天津・漢口をはじめとする東北・華北・長江沿いの11の港を開港し、外国人の内地旅行権や、外国公使の北京常駐、キリスト教布教権を認め、中国人の海外渡航を公認し、イギリスに九竜半島南部を割譲した。さらにこれに前後してアヘン貿易も合法化された。これによってイギリス・フランス側は戦争前に期待していものをすべて入手したといってよい。この条約の結果、北京には外国公使が常駐するようになったため清朝側は総理各国事務衙門を設置して外交交渉をおこなうことになったが、実際は李鴻章などの有力官僚たちが外交を担うことも多かった。(p.386)

cf.)総理衙門の設置は、華夷秩序に基づき対等な外国の存在を認めなかった清が、欧米諸国と主権国家体制に基づく外交を始めたことを意味する。

 

太平天国の動乱』

拝上帝会儒教や民間宗教を排斥したため、現地のエリート集団と対立を深め、ついに清朝と衝突することになり、1851年3月に洪秀全は「天王」に即位し、宗教共同体を「太平天国」として、地上の天国の実現をめざすことになった。太平天国軍は清朝軍と戦闘を続けながら広西省から湖南省を移動し、失業者や鉱山労働者などを吸収して集団を拡大した。53年1月には湖北省省都武昌を占領、長江をくだり同年3月に南京を攻略、ここを首都として天京とした。(p.387)

 

太平天国の反乱が拡大し清朝支配が動揺するなかで、各地で諸反乱が発生した。華北で捻軍といわれる塩の密売業者を中核とする農民反乱が発生し、上海をはじめとする東南沿海部では秘密結社(会党)による反乱が頻発した。また貴州の苗族をはじめとする西南の少数民族や、西北・雲南イスラーム教徒の反乱も起こり清朝は危機的な状況に陥った。(p.387)

 

清朝は八旗・緑営の常備軍だけでは太平天国に対抗できず、郷紳たちに団練・郷勇の編制をよびかけた。そのなかで湖南省出身の学者官僚である曾国藩(1811〜72)は親族や友人弟子などの個人的なネットワークを利用して団練を統合し、湘軍という巨大な郷勇をっくり上げ、太平天国と死闘を繰り広げた。さらに、太平天国が江南に進出て上海が危機に陥ると、曾国藩は部下の李鴻章(1823〜1901)を派遣した。李鴻章は故郷の安徽で准軍を編制して上海の防衛にあたり、さらには江蘇省の諸都市奪還を進めた。(p.387)

 

太平天国軍の江南進出は、上海を拠点としつつあった列強との関係を決定的に悪化させ、イギリス・フランスは直接上海防衛にあたったほか、アメリカ人ウォード(1831〜62)やイギリス人ゴードン(1833〜85)といった外国人指揮官のもと中国人を外国製近代兵器で武装させた常勝軍を編制した。常勝軍は准軍とともに太平天国を上海付近から駆逐し、東から圧迫した。一方、西方からは湘軍が圧力を強めて天京を包囲、1864年6月には洪秀全が死去し、翌月には天京も陥落、太平天国は滅亡する。(p.387)

 

『洋務運動』

咸豊帝死後のクーデタで実権を握った同治帝(位1861〜75)の母親である西太后(1835〜1908)と恭親王の政権のもと排外政策を転換し、対外的に安定した時代にはいった。また、太平天国をはじめとする反乱も鎮圧の方向へと向かった。こうした内外の状況が安定した同治の中興といわれる時期以降に進められたのが、西洋の技術導入によって富国強兵をはかる洋務運動である。この背景には、太平天国の鎮圧において中心的な役割をはたした曾国藩李鴻章、左宗棠(1812〜85)らが、近代的兵器の威力を目のあたりにして衝撃を受けたことがある。したがって、洋務運動はこれら地方大官によって進められ、清朝最大の実力者となった李鴻章がその中心となった。(p.388)

 

明治維新

ロシアの北方への進出に対しては、樺太・千島交換条約(1875)によって国境を画定し、屯田兵などを導入して北海道開発を進めて北方防衛を強化した。一方で琉球漁民殺害事件を契機に台湾に出兵し、琉球藩も廃止して沖縄県として日本に完全に組み込んだことは清朝に脅威を与え、両国の関係は朝鮮をめぐって深刻化していく。(p.390)

 

『朝鮮問題と日清戦争

朝鮮は清朝朝貢するとともに、日本にも朝鮮通信使を派遣し、対馬を通じて交渉するという関係にあった。明治政府は近代的な外交関係の構築をはかったが、当時政権を握っていた高宗(位1863〜1907)の父の大院君(1820〜98)がこれを拒否した。日本では1873年征韓論が起こったが、結局介入をしなかった。しかし、国王の王妃である閔氏(1851〜95)の一族が大院君から政権を奪取するなかで、75年、江華島事件を契機に日本は朝鮮に圧力をかけ、不平等条約である日朝修好条規を締結して朝鮮を開港させ、公使館領事館を設置して外交関係を結ぶにいたったが、そのなかで朝鮮を「自主の邦」であるとした。(p.391)

 

清朝が朝鮮に対す干渉を強めるなか、1882年に日本の指導下の軍制改革に反対するクーデタである壬午軍乱が発生し、大院君政権が成立した。これに対して清朝軍が介入して大院君を拉致、閔氏政権が復活して、清朝の勢力が増大するにいたった。(p.391)

 

1884年清仏戦争が勃発して福建艦隊全滅の情報がはいると、金玉均(1851〜94)ら親日的な改革派はクーデタを起こして閔氏政権を打倒し、親日政権を樹立した。しかし、袁世凱の指揮する清朝軍が介入して閔氏政権は復活、日本公使館が焼き討ちされ、日本人が殺害されるにいたった。日本は朝鮮政府と善後処理の条約を結び、清朝とは天津条約で両国軍隊の撤退と朝鮮派兵の際の事前通告を決めた。この甲申政変ののちに、清朝の朝鮮内政に対する千渉はいっそう強まることになる。(p.391)

 

1894年、西学(キリスト教)に対抗する東学という個教・仏教・道教が混請した新宗教の教団が全琫準(1854〜95)を指導者として蜂起、甲午農民戦争が勃発した。農民軍を鎮圧できない朝鮮政府は清朝に出兵を要請、清朝は派兵するとともに、日本にも通告、これを受けて日本も派兵した。朝鮮政府と農民軍が和解に達すると、日清両軍は派兵の大義名分を失ったが、日本は不利な状況にあった朝鮮半島での状況を一気に挽回するために清朝との戦争を決意、日本が出した朝鮮の内政改革の要求を清朝が拒否すると、日本軍は朝鮮王宮を占領して関氏政権を打倒し、ついで清朝軍交戦状態にはいった。(p.391)

 

日本側の条件を清朝側が受け入れるかたちで1895年4月に締結された下関条約では、朝鮮の独立が確認されて清朝の不干渉が決まり、遼東半島・台湾・澎湖列島が日本に割譲され、賠償金2億両の支払いが決定され、開港場での外国の企業の設置権も認められた。さらに、96年に締結された日清通商航海条約によって日本は領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇を認めさせることになる。(p.392)