詳説 世界史研究 第12章 南アジア・東南アジアの植民地化

『交易の中心地インド』

インドを中心とした南アジア世界は、胡椒などの香辛料や薬品原料だけではなく、優れたデザインと品質を有する綿布を古くから大量に生産する地域でもあった。そのため、18世紀にいたるまで世界で有数の製造品輸出国であり、インド綿布は、西はアフリカや西アジア、東は東南アジアにおよぶ環インド洋世界を中心に、さらにはヨーロッパや日本にまでおよぶ広い地域を市場としていた。(p.370)

 

インド産品は、インド人商人やムスリム商人によって中央アジア西アジアを経由してヨーロッパまで運ばれていたが、その間を結ぶ交易路が政治的に不安定になってくると、インドへの直接の航路をめざす試みが、コロンブスをはじめ多くの航海者によっておこなわれることになった。(p.371)

 

『植民地統治の開始とインド社会の変容』

イギリス東インド会社がインド社会に導入した地税徴収の方式としては、政府と農民との間を仲介する者に徴税を任せ、その仲介者をザミンダールとして私的土地所有権を与えるザミンダーリー制や、仲介者を排除して、国家的土地所有のもとで農民(ライヤット)に土地保有権を与えて徴税するライヤットワーリー制などがあった。これらの土地制度はそれまでの社会編成を大きく変え、インド社会に深刻な影響を与えた。従来のインド農村社会では、耕作者はもちろん、宗教関係者洗濯人・大工など、地域社会が必要とするさまざまなサービスを提供する人々が、それぞれ地域社会の総生産物の一定割合の現物を手当てとして得る権利をもち、その手当てで生活していた。手当て自体には大きな格差があったものの、地域全体でそこでの再生産活動に従事する人々を支えており、地域社会には共同体的な性格があった。しかし、植民地支配下で新たに導入された土地制度では、ザミンダールであれライヤットであれ、1人だけが特定の土地や村落、地域の排他的な所有者として認定されたために、他の人々が従来もっていた権益は消滅した。無権利状態に落とされた多くの人々は、その後自らの生活を支えるために、新たなサービス関係を個別に結ぶか、農業開発・土地開発を進めて土地の権利を獲得する以外の選択肢はなくなり、それまでの地域や村での共同体的な人と人との関係が大きく変化した。地税額も極めて大きく、19世紀前半を通じて農産物価格が低落したことから、税の現金支払いのためにより多くの生産物を販売しなければならず、農民の生活は困窮した。(p.374)

 

インドが世界に誇っていた綿布生産においても、産業革命以降、イギリス製の機械製綿糸や綿布が流入してインド製品を圧倒した。植民地政府は、イギリス製品をインドの内部まで浸透させるために、内国関税を廃止し、交通運輸を改善した。その結果、インドは、綿花や盛、ジュート・茶などの一次産品をイギリスに輸出し、イギリスから工柔製品を大量に輪入する立場となった。綿布にかわって最大の輸出品目となっていたのは、中国向けのアヘンであった。18世紀にイギリスで中国茶の消費が激増し、その支払いのための銀流出が大きな問題となり、その解決策としてインドのアヘンを中国で売るという方法がとられたのである。(p.374)

 

貿易構造と経済体制の変化は、イギリスの産業革命によって力をつけてきた産業資本の影響力が増し、イギリスが自由貿易体制へと移行する動きと連関した変化でもあった。自由貿易体制とは、関税や排他的な貿易特権を廃止するというものであるが、その背後には、工業生産から運輸・通信・金融などの経済部門で、イギリスが圧倒的な位置を占めるという状況があった。(p.375)

 

東インド会社の独占貿易は自由貿易への障害であると、いわゆるカントリートレーダー(地方貿易商人)とよばれるアジア各地での貿易に大きな役割をはたしつつあったヨーロッパ人商人からの批判も高まった。1813年の特許状改定時にはインドとの貿易独占権が廃止され、続く33年の特許状改定時には、残されていた茶の取引と中国貿易の独占権が廃止されただけでなく、商業活動そのものの停止が定められ(翌34年に実施)、ベンガル総督はインド総督としてインド全体の統治者となった。こうして東インド会社は、名実ともにインドの政治的統治主体と変身した。(p.375)

 

『19世紀後半のインドと大反乱』

1858年にはムガル皇帝が流刑に処せられ、ムガル帝国は名実ともに滅亡した。反乱はその後も続いたが、形勢が逆転することはなかった。(p.376)

 

インド帝国の成立と統治』

1858年、イギリスは東インド会社を解散し、インドはイギリス本国によって直接統治されることとなった。イギリスにはインド省と担当大臣がおかれ、インドは総督と参事会が政庁を統轄するかたちとなった。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任することになり、インド総督は副王を兼任した。こうしてインド帝国が成立し、以後1947年の独立まで存続することになった。(p.376)

 

世界各地で進展した農業開発の労働力として、初期にはカリブ海やインド洋のサトウキビブランテーションへのアフリカ人奴隷にかわる年季契約移民として、のちには環インド洋地域での鉄道建設や茶・コーヒー・ゴムなどのプランテーション労働者として、多くのインド人移民が海を渡った。(p.376)

 

『東南アジアの植民地化』

東インド総督ファン=デン=ボス  (位1830〜34)  は、1830年にコーヒー・藍・サトウキビなど指定した作物の栽培を村落に割り当て、指定した量の産品を定められた値段で供出させる強制栽培制度をジャワに導入した。上記の作物のほか胡根・タバコ・シナモン(肉桂)も対象となった。強制栽培制度は一部の産品を除き70年まで続き、オランダは莫大な利益をあげた。一方ジャワ農民は、サトウキビ栽培のための瀧概の拡大により水田の生産性を向上させたが、凶作と強制栽培がかさなり、飢饉のために死者が出る場合も生じた。(p.377)

 

1824年の英蘭条約により、マラッカ海峡をはさんで東側をイギリス、西側をオランダの勢力圏とした。イギリスは、ペナン・マラッカ・シンガポール(1819年開港)を26年に海峡植民地とした。イギリスはその後1870年代に、錫の採掘が進展したマレー半島の内紛に介入し、95年にマレー連合州を形成してイギリスの保護領とした。またブルネイ王国やサバ、サラワクの北ボルネオもあわせ、イギリス領マラヤ北ボルネオが成立した。マレー半島では錫の採掘が進展するとともに、20世紀にはゴム栽培が盛んになった。錫採掘に中国人、ゴム栽培に南インドのタミル人が労働者として多数活用された。(p.378)

 

インドと隣接するビルマでは、18世紀半ばにタウングー朝がペグーの中国人やモン人の反抗を招いて、混乱状態に陥った。こうしたなかでペグー軍の侵攻を受けて、1752年にタウングー朝が滅亡した。これに対しコンバウン朝(1752 ~~ 1885)のアラウンパヤー(1714〜60)は、中部平原の勢力を結集し、タウングー朝の王都を勢力下におき、ビルマを再統一した。ビルマはタイにも侵攻し、67年にはアユタヤを滅ぼした。ビルマ軍はその後タイから撤退したが、その際連行したシャム人をビルマ中央平原の再開発に徴用し、国力を強めた。(p.378)

 

イギリス領のインドとの境界間題から、ビルマとイギリスの間に第1次ビルマ戦争(1824〜26)が起こった。ビルマは敗北し、アラカンとテナセリウムを失った。その後、再びイギリスがビルマに戦争をしかけ(第2次ビルマ戦争、1852〜53)、敗北したビルマは、イラワディ川下流域をイギリスに割譲した。その後ビルマがフランスと接近し始めると、イギリスは1885年に一方的に第3次ビルマ戦争を起こし、コンバウン朝を廃絶し、ビルマインド帝国編入した。イギリス領ビルマの首都はラングーンとなり、イラワディ川流域の米のプランテーションが、インドからの移民を交え発展を遂げた。(p.378)

 

アカプルコとマニラ間のガレオン貿易の進展は、中国人のフィリピンへの参入を促した。これに対して、18世紀後半にスペイン人植民者、中国系メスティーソ、フィリピン人によるフィリピンの経済開発を唱えたブルボン改革が実施され、1770年代に中国人はフィリピンから追放された。経済活動の中核は、中国系メスティーソによって担われることとなった。(p.379)

 

南部ベトナム逃れていた広南阮氏の一族の阮福瑛(グエン= フォック=アイン、位1802〜20)は、フランス人宣教師ピニョー(1741〜99)に会い、フランスの支援を求めた。(p.379)

 

1789年にピニョーやフランス人義勇軍と合流し、シャムやラオスカンボジアからも支援を得て、西山阮氏を滅亡させた。阮福瑛は1802年フエで即位し、嘉隆帝(位1802〜20)となり、ベトナムの統一王朝が出現した。翌年嘉隆は清に冊封を求め、1804年に越南国王として認められた。(p.380)

 

宣教師の迫害は、フランスのベトナム介入のきっかけとなった。1858年フランスはカトリックの迫害を口実に、艦隊を派遣しダナンを砲撃し、サイゴンを占領した。62年阮王朝はフランスに屈服し、メコンデルタ3省をフランスに割譲する第1次サイゴン条約が結ばれた。さらにフランスは、63年にカンボジア保護国化した。その後フランスは67年にメコンデルタ西部3省にも進撃し、メコンデルタすべてとビエンホア(中部ベトナム)がフランス領コーチシナとなった。フランスは、メコン川から中国へいたるルートを模索した。しかしコーンの滝に阻まれたため、紅河から遡ることを検討し始めた。74年にフランスは、紅河の航行権と主要都市への駐兵権を認めさせる第2次サイゴン条約をベトナムと締結した。これに対し、当時北部ベトナムと中国の国境で活動していた劉永福(1837〜1917)率いる黒旗軍を引き入れたベトナムは、ハノイフランス軍を撃破した。フランスは82〜83年紅河デルタに派兵し、フエを砲撃した。ベトナムは、クイニョンとダナンの開港と北部へのフランス軍出兵を認める、第1次フエ(ユエ)条約に調印した。(p.380)

 

フランス軍の北部出兵に対抗して、中国も正規軍を派兵した。ベトナム・中国の連合軍とフランスが衝突した(清仏戦争、1884〜85)。1884年戦況の不利を知った李鴻章は、フランス代表フルニエとフエ条約の追認を認める李・フルニエ協定を結び、撤退した。フランスはさらにベトナムに、フランスの保護国となる第2次フエ条約を強制した。一方季・フルニエ協定を認めない清軍とベトナム軍は抵抗を続けた。フランスは福州や台湾を砲撃した。85年李鴻章は、天津条約を締結し、清朝はフランスがベトナム保護国とすることを承認した。(p.380)

 

フランスは保護国としたトンキン・アンナン・カンボジア・直轄領のコーチシナを1887年にフランス領インドシナ連邦に併合した。99年にはラオスも連邦に加え、1900年には租借地広州湾もこれに加えた。フランスはメコンデルタを米の生産地として開発した。インドシナ植民地は米を近隣アジア諸国に輸出し、フランスから工業製品を輸入した。(p.380)

 

『タイの情勢』

1782年にチャクリが、バンコクに宮殿を構え、ラーマ1世  (位1782〜1809)として即位した。今日まで続くラタナコーシン朝(チャクリ朝、1782〜)の始まりである。ラーマ3世(位1824〜51)、ラーマ4世(位1851〜68)の時代、タイは隣接するビルマへのイギリスの侵攻に危機感をいだいた。ラーマ4世1854年アユタヤ朝以来続いた中国への朝貢船の派遣を廃止し、翌55年にはイギリスとボウリング条約を結び、伝統的な王室独占貿易を廃止した。アメリカとフランスとも同様な修好通商条約を結び、欧米列強との交流を進展させようとした。(p.380)

 

ラーマ4世の後を継いだチュラロンコン(ラーマ5世、位1868〜1910)は、シャムを近代中央集権国家にするために国政参議会を設置し、税制や官僚制・裁判制度の改革をはかり、学校制度を導入した。(p.381)

 

イギリス領を形成したイギリスとフランス領インドシナを形成したフランスは、1904年に英仏協商を結び、シャムを緩衝地帯として植民地化しないことに同意した。タイは独立を保持することができた。(p.381)