詳説 世界史研究 第11章 19世紀欧米の文化

※暗記事項の中でも論述のネタになりやすいものをピックアップ

 

『貴族文化から市民文化の時代へ』

19世紀では台頭してきた都市市民層を基盤とする市民文化が主流となった。文化の享受者は一部の特権的身分層ではなく、広い公衆となり、文化の保護者・推進者は国家・自治体など公的機関に移行し、世紀末までにはヨーロッパの主要都市は、コンサートホール・オペラ劇場・美術館・博物館などの一般公衆を対象にした文化施設を備えるようになった。(p.357)

 

『文学・芸術の諸潮流』

合理主義への疑義やフランス軍の侵入占領への抵抗のなかから、それぞれの地域や民族の言語・伝統文化の個性、固有の歴史的価値が発見され、見直され、また合理主義ではとらえられない個人の感情や想像力を尊重しようとする動きがあらわれた。こうした動きは多面的な分野で、また多様なあらわれ方をしたが、それらは総称してロマン主義とよばれる。(p.358)

 

19世紀後半には、産業社会の出現による社会構造の変容、近代科学の進展による世界観の革新などによって、過去を理想化し、現実逃避の傾向を示すロマン主義にあきたらず、現実の社会や人間をありのままに描くリアリズム(写実主義)が、スタンダール(1783〜1842)  やバルザック(1799〜1850)を先駆としてフランス文学から始まり、フロベール(1821〜80)の「ボヴァリー夫人」で確立され、イギリスのディケンズ(1812〜70)、ロシアのゴーゴリ(1809〜52)、トゥルゲーネフ(1818〜83)など各国に広まった。この傾向を科学の実証的成果や観察に依拠してさらに進めたのが自然主義で、人間の偏見や社会の諸矛盾を描くフランスのゾラ(1840〜1902)、モーパッサン(1850〜93)、ノルウェーイプセン(1828〜1906)などの作家を生み出した。(p.359)

 

絵画においても、19世紀初めはダヴィド(1748〜1825)やアングル(1780〜1867)のような古典主義の肖像画などの主題が公的展示や社会上層に好まれたが、やがてフランスのドラクロワ(1798〜1863)や自然を神秘的に描いたドイツの風景画家フリードリヒ(1774〜1840)などのロマン主義絵画があらわれ、自然主義のミレー(1814〜75)や写実主義クールベ(1819〜77)などが続いた。19世紀前半では技法ではなく、描かれる対象や主題の選択が重要であったが、やがて世紀後半には、光のとらえ方など利学的観察によって、描き方そのものを根本的に見直そうとする印象派による革新が起こった。そこから20世紀には画家個人の感覚や心理を重視するさまざまな流派が成立した。(p.359)

 

『近代諸科学の発展』

経済学で、イギリスではアダム=スミス以来の流れを継承したマルサス  (1766-1834)  、リカード(1772〜1823)らの古典派経済学が、経済過程への国家の介入を退け、自由な市場経済自由貿易を提唱して、イギリスの経済発展を支える理論となった。これに対し、ドイツのリスト(1789〜1846)はそれぞれの国家の歴史的経済発展の個性に基づく経済政策を唱え、後進的国民経済の育成には、保護関税などで国内市場を守る必要があると主張した。(p.360)

 

マルクスの「資本論」で大成するマルクス主義も、当時多く出された歴史の発展段階論の1つで、それぞれの時代を生産様式に基づく階級社会と規定し、これまでの歴史段階は古代奴隷制・中世封建制・近代資本主義であり、つぎの段階である社会主義への移行を担うのは労働者階級であると説明した。この理論は労働運動を力づけ、19世紀末には国際社会主義運動・労働運動の指導的理論となった。しかし、マルクス主義経済学は当時の学界や大学ではほとんど受け入れられなかった。(p.361)

 

オーストラリア以外の太平洋地域が注目され、新航路の開発、新種の動植物の収集などを目的に、イギリスのクック(1728〜79)によるニューギニアニュージーランドなどの太平洋探検がおこなわれた。(p.362)

 

19世紀にはいると沿岸地域しか知られていなかったアフリカ内陸部への探検も始まった。イギリスのリヴィングストン(1813〜73)は伝道も兼ねて、ナイル川源流を探索アフリカを横断踏査し、本国に状況を伝えた。また、イギリス出身のアメリカ人(のち、イギリスに戻った)スタンリー(1841〜1904)がコンゴ川流域を探検し、ベルギー国王の支援を受けてコンゴ自由国を建設した。(p.362)

 

20世紀には最後の未踏の地として、さらに北極航路の探索などから、国家的威信をかけて南北両極点到達が競われ、イギリスのスコット(1868〜1912)隊はノルウェーアムンゼン(1872〜1928)隊に1カ月差で先を越され、帰途遭難して全滅する悲劇も起こった。(p.362)

 

19世紀末から20世紀初め、スウェーデンのヘディン(1865〜1952)、イギリスのスタイン(1862〜1943)によって、中央アジア・中国西部の学術的探検がおこなわれ、前者は楼蘭、後者は敦煌で貴重な資料を発見し、シルク=ロードの解明に貢献した。(p.362)

 

『近代大都市文化の始まり』

ヨーロッパ近代の成果を集約的に体現したのが、19世紀後半以降の主要国の首都であった。首都は国家の威信と国力を示す場であり、パリやウィーンは近代建築技術や土木工学を動員して、都市計画に基づき、大規模な都市改造を実施し、上・下水道の整備、古い城壁やスラム街区の取り壊し、壮大な公共建築物や街路・公園の整備、都市交通網の拡充を実施した。(p.362)