詳説 世界史研究 第11章 ヨーロッパの再編と新統一国家の誕生

クリミア戦争

サルデーニャ王国も将来のイタリアでの領土拡大と統一への支援を得るため、イギリス・フランス側について参戦した。戦争のさなかの55年初め、ニコライ1世は急死し、アレクサンドル2世(位1855〜81)が即位した同年9月、イギリス・フランス側はセヴァストーポリ要塞を占領したが、両陣営とも損害が大きく、講和交渉の結果、56年パリ条約で和解した。ロシアは黒海の非武装化、両海峡の全軍艦通過禁止を受け入れ、オスマン帝国内の全キリスト教徒は列強の共同保護下におかれ、ロシアの地中海進出策は頓挫した。クリミア戦争によって列強間の協調が崩れ、列強体制は機能しなくなった。列強や欧米諸国もそれぞれ自国内の統合強化や政治・社会改革などに集中する内向き姿勢が強まった。そのため、1850年代半ばから70年代初めまでの十数年間は、ヨーロッパの国際社会では各国が干渉を受けずに対外的行動や大きな内政改革に取り組みやすい状況が出現した。(p.333)

 

『ロシアの改革』

近代化の立ち遅れを自覚させられたロシアでは、開明的国家官僚層や知識人から改革の必要が唱えられ、農奴制こそが最大の障害であるとの声が高くなった。アレクサンドル2世もそれを認め、1857年から鉄道建設の推進など経済改革と並んで、農奴解放の準備を開始した。農奴解放には領主貴族層からの激しい反対があったが、皇帝は農奴解放が「下から起こるより、上から起こるほうがよい」と語って押し切り、61年2月、農奴解放令が公布された。(p.333)

 

解放令によって、農奴は2年の準備期間ののち人格的に解放されるが、土地は領主から有償で買い取ることになった。しかも、土地は直接個々の農民にではなく、従来の農村共同体(ミール)を改編してできた村団に与えられた。農民は自由で自立した農民になったのではなく、所属する村団の構成員として解放され、村団の規制を受ける身分になった。村団は国家機構の最末端組織と位置づけられ、農民は国家に直接組み込まれた。失望した農民の一部は抗議行動を起こしたが、政府によって押さえ込まれた。(p.333)

 

ロシア政府は国内改革と並行してポーランド支配を一部緩和し、政治犯の釈放やポーランド人官吏の登用などを認めた。独立回復をめざすポーランド民族主義運動は活性化し。1860年代にはいるとワルシャワでは解放を要求するデモ隊とロシア軍が衝突する事件も起きた。ポーランドの解放勢力内では、ロシアの譲歩に期待する穏健派と、武装蜂起による実力解放を掲げる革命派が対立したが、イタリアの統一など国際的な民族運動台頭の影響を受けて、後者が優勢になった。63年1月、革命派の主導で武装蜂起が始まり、農民への土地分配を約束した農民解放令を発して、支持を広げようとした。ロシアは軍を派遣して蜂起を制圧する一方、蜂起派よりも農民に有利な解放令を公布して、農民と蜂起派を分断した。期待したフランスなどの国際的支援も同情の表明にとどまり、蜂起は64年にほぼ鎮圧された。皇帝はこの事態に失望し、一転して蜂起指導者の大量処刑や流刑、ポーランド王国名の取り消しなど強硬な抑圧策に立ち戻った。プロイセン=フランス(普仏)戦争でのフランスの敗北とドイツ帝国の成立で、国際環境も変動しポーランド独立運動は停滞した。(p.334)

 

1866年、革命派の青年カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件が起こると、政府は反動的姿勢を強めた。上からの改革に期待した自由主義者は影響力を失い、知識人学生(インテリゲンツィア)のなかには、下からの革命によって社会主義の実現をめざす動きがあらわれた。60年代末には学生・青年知識人は、「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」を掲げ、農民を啓蒙し、農村共同体を基礎にした運動が組織された。74年夏にはナロードニキ(人民主義者)とよばれた青年たちが大挙して農村地帯にはいり、熱心に農民への啓蒙活動助を繰り広げた。しかし、農民の多くは青年たちの主張に共感を示さず、政府もこうした運動を厳しく抑圧した。(p.334)

 

ナロードニキの活動が低迷すると、バクーニン(1814〜76)などの無政府主義アナーキズム)の影響を受けて、「行動による宣伝」のため都市でのテロリズム(暴カ主義)に期待するグループが生まれた。テロという手段には反対もあったが、政治活動の自由のない専制国家のもとでは、やむをえない手段と正当化された。(p.334)

 

ヴィクトリア時代のイギリス』

19世紀を通じて、イギリスの輸出品の第1位を占めたのは依然として繊維製品、とりわけ綿製品であり、しかもイギリスの貿易収支は一貫して赤字で、19世紀後半にはその額は増大した。にもかかわらず、対外収支全体が黒字であったのは、巨額の貿易外収入があったからである。世紀前半ではおもにイギリスの船舶による海運料や保険サービスなどの収入が、世紀後半では海外投資からの利子・配当収入などが、貿易収支の赤字をカバーした。ロンドンの金融街シティは国際金融の中心で、イギリスは「世界の銀行」として世界経済の司令塔の地位にあり、さらに世界最大の植民地帝国でもあった。(p.335)

 

国内改革の柱の1つは、高等教育での宗派差別の廃止、中等教育などの教育システムの改革であり、ドイツに比べて遅れていた初等教育も、1870年に初等教育法が成立して改善された。これはまだ義務教育ではなかったが、その出発点となった。70年代には、労働組合への規制撤廃、さらに労使の法的対等化が制度化され、80年以降の労働組合運動の進展を促した。84年には第3回選挙法改正が実施され、農業・鉱山労働者にも選挙権が認められて有権者が倍増し労働者階級の有権者は全体の半数を超えた。(p.337)

 

対外政策では、クリミア戦争でロシアの東地中海進出を阻止した後は、ヨーロッパ大陸の国際政治への介入を避け、海外進出を強めた。その重点はアジアであり、アロー戦争によっ中国市場への経済進出を広げ、東アジア進出拠点として香港を確保し、ほぼ同時期に起こったシパーヒーの大反乱を鎮圧してインドを直轄支配下におくなどの、武力をてこにした一連の強引な進出策が遂行された。(p.337)

 

1875年には、ディズレーリがスエズ運河株を買収して、インドへのルートを確保し、77年にはインド帝国を成立させて、帝国圏の形成を推進した。イギリスの帝国拡大策には批判もあったが、それは植民地放棄や縮小を求めるというより。支配や直接統治が本国の財務負担増になることへの反対が中心であった。73年に起こった世界的恐慌は90年代まで続く世界的な低成長期(大不況)に繋がり、イギリスにも深刻な打撃を与えたが、そのため植民地の意義が再認識され、帝国拡大路線も支持されるようになった。(p.337)

 

政府は1867年のカナダ連邦設立にみられるように、現地の白人入植者の自治政府に管理を委ねて本国の負担を軽減させ、また直接支配より経済的浸透・市場制覇などの間接支配による「非公式帝国主義」で対応した。なお、自治領の地位は20世紀にはいってオーストラリア(1901)、ニュージーランド(1907)、南アフリカ連邦(1910)にも認められた。(p.337)

 

内政上残された大きな課題は、アイルランドの処遇であった。アイルランド1800年の合同法によって翌年正式に「連合王国」に併合されたが、ケルト系住民の多くはカトリック教徒で、イギリス人地主のもとで貧しい小作人の地位に押しとどめられていた。さらに、40年代のジャガイモ飢麓で大きな犠牲を出したアイルランドは、19世紀を通じて大量の移民をアメリカに送り出し、人口が減りつづけた。農業を主産業とするアイルランドでは、不在地主化したイギリス人地主とアイルランド人借地農民との対立が激化し、政府は借地農民の保護などの法的処置(アイルランド士地法)で打開をはかろうとした。しかし、地主層の抵抗に遭って効果をあげず、80年代半ばには、グラッドストン自治権付与を認める法案を提出したものの、自由党の内部からジョゼフ=チェンバレン(1836〜1914)ら反対派が分裂したため、議会で否決された。アイルランドでは、自治獲得を求めるアイルランド国民党が支持を広げて、アイルランド問題は未解決のまま20世紀に持ち越された。(p.337)

 

『フランスの第二帝政第三共和政

フランスでは1852年の国民投票によって、帝政復活が96%の圧倒的多数で承認されてナポレオン3世による第二帝政が成立した。彼の統治体制は、国民主権を正統性の根拠にして、立法院の選挙と並んで人民投票制を採用しながら、他方では強力な皇帝権と行政府による統治・行政をおこなうという、民主制と権威主義が併存した当時例のない統治形態で、ボナパルティズムとよばれている。(p.338)

 

第二帝政期は、フランス工業の一大発展期で、鉄道網は20年間で5倍に伸び、それを支える資本を提供する新しいタイプの銀行群も整備され、1860年の英仏通商条約によって自由貿易主義への転換もはかられた。皇帝が登用したセーヌ県知事オスマン(任1853〜70)によって、パリでは大規模な都市改造が実施され、近代的首都としての外観・内実を完成させた。その偉容は2度にわたる万博開催をとおして、国際社会からも注目された。(p.338)

 

ナポレオン3世の重要な外交目標は、ナポレオン戦争の敗北後、国際社会から危険視され、国際政治からの一歩後退をよぎなくされたフランスの国際的地位の回復であった。カトリックの保護を掲げてオスマン帝国に介入し、ロシアの反発を招いてクリミア戦争の一因をつくり、戦勝国の皇帝となってパリでの講和会議を主宰した。さらにナショナリズム運動の支持を掲げて、サルデーニャの北イタリア拡大を支援しオーストリアと戦った。この行動で教皇庁と対立することになったが、支援の見返りとしてニースなどを割譲させた。彼の外交は場当たり的で無定見という批判を受けたが、フランスの栄光の追求という点では一貫していた。(p.338)

 

その後も、フランスの国威発揚をめざして、アジアでは、イギリスとともに中国に対しアロー戦争を起こし、インドシナ半島に足掛かりをつくり、アフリカでも植民地の確保に努めた結果、第二帝政期のフランス植民地は3倍に拡大した。スエズ運河建設支援もそうした対外進出の一環であった。(p.338)

 

ナポレオン3世の華々しい対外政策は、1861年にメキシコに千渉し、ラテン帝国建設をめざして軍を派遣したことから下り坂に向かった。南北戦争アメリカが動けない状況を利用したこの行動は、メキシコ側の反撃とアメリカの抗議により撤退に追い込まれ、まったくの失敗に終わった。(p.338)

 

70年、スペイン王位継承問題でプロイセンに譲歩させたものの、ビスマルクの巧妙な反撃に遭って、軍事的準備のないままプロイセンに宣戦せざるをえなくなり、プロイセン=フランス(普仏)戦争(ドイツ=フランス戦争)を引き起こした。ドイツ側はフランス軍を圧倒し、開戦後3カ月もたたないうちにフランス軍を撃破し、ナポレオン3世をスダンで包囲して、降伏させた。近代ヨーロッバで、列強国の元首が捕虜になるという例のない屈辱的敗北に、パリ民衆は蜂起して、共和制が宣言され、国防政府(臨時政府)が成立して、第二帝政は瓦解した。(p.338)

 

国防政府のもとでも戦争は続けられたが、1871年初めパリ降伏を受け入れざるをえなくなり、その後ドイツの同意のもとに、講和交渉の権限をもつ議会を選ぶ選挙が実施された選挙では保守派が圧勝し、ティエール(1797〜1877)が行政長官に任命され、講和交渉を委任された。最終的に5月に締結されたフランクフルト講和条約では、フランスはアルザス=ロレーヌを譲渡し、50億フランの償金支払いを課せられた。しかし、ドイツへの譲歩に不満をいだいたパリ民衆は、社会主義者や共和主義者とともに下からの自治組織を結成して、国防政府と対立した。ティエールが国防政府をヴェルサイユに移すと、パリではコミューン議会が選出され、全国にもコミューン結成をよびかける宣言を発した。しかし、パリ=コミューンは全国的には孤立し、またコミューン内部の対立もあって、求める社会改革像も明確ではなかった。国防政府は、パリ=コミューンとの併存状態に終止符を打つため、1週間におよぶ市街戦でパリ=コミューンを制圧した。コミューン側の死者は2〜3万人と推定されている。(p.339)

 

第二帝政後のフランスの統治形態については、王党派・ボナパルト派・共和派など政治諸党派が対立し、しかもそれぞれの党派内部でもさまざまな潮流があって、コミューン制圧ののちも長く合意が得られなかった。しかし、1875年までには共和派が勢いを取り戻し、3つの基本法が採択されて、第三共和政が確定した。この3基本法を総称して憲法とよんでいるが、正式の憲法第三共和政の最後まで存在しなかった。80年代までに、三色の国旗と「ラ=マルセイエーズ」の国歌も制定され、第三共和政はさしあたり安定した。(p.339)

 

『イタリアの統一』

ウィーン体制成立から1860年代までのイタリアは、「リソルジメント(復興)」時代とよばれている。これまでイタリア統一をめざした時代と規定されることが多かったが、これは一面的理解で、近年では、イタリア諸国家がナポレオンの支配から脱して、それぞれの新しい政治・社会体制を模索した時代とみる考え方が強くなっている。(p.339)

 

1858年、カヴールはナポレオン3世とスイスのプロンビエールで会談し、サルデーニャ王国が北イタリアからオーストリアを排除する戦争の際には、フランスが支援するとの密約を結んだ。カヴールの構想は、サルデーニャ王国が北イタリアを併合し、中央・南イタリア教皇国家など3国に委ね、イタリアを4国で構成することにあり、イタリアを統一国家にまとめる意図はなかった。(p.340)

 

翌年、サルデーニャの動きを察知して、オーストリア最後通牒を突きつけると、サルデーニャ・フランス連合軍はオーストリアと開戦し、ソルフェリーノの戦いに勝利して優位に立った。ところが、,ナポレオン3世は国内のカトリック勢力の反対や、中部イタリアの諸公国でサルデーニャ王国との併合を要求する動きが広まったことから、サルデーニャ王国の強大化を恐れ、一転してオーストリアと単独交渉にはいった。その結果、オーストリアロンバルディアをフランスを介してサルデーニャに譲渡するヴィラフランカの講和が結ばれた。このためサルデーニャヴェネツィア地域を得られず、カヴールの構想は挫折して首相を辞した。その後1860年、首相に復帰したカヴールはナポレオン3世と交渉し、フランスにサヴォイア・ニースを割譲することを条件に、中部諸地域で住民投票を実施し、サルデーニャ併合支持を確認して併合することを認めさせた。北イタリア全土の併合はできなかったが、カヴールの目的はいちおう達成された。(p.340)

 

オーストリア戦に義勇軍を率いて参加したガリバルディ  (1807〜82)は、両シチリア王国を占領し、サルデーニャ王国とあわせてイタリア統ーを達成することを計画した。彼は1860年5月、約1000人の義勇兵(赤シャツ隊)とともにシチリアに上陸し、7月には全島を支配下におさめて、本土のナポリに進撃した。この状況がフランスの介入を招くことを危恨したカヴールは、サルデーニャ軍を南部に進ませた。ガリバルディ南イタリアでイタリア統一の賛否を問う住民投票を実施して、圧倒的賛成を確認し、サルデーニャ王国への俳合を国王に申し出た。こうして、カヴールの当初の構想を超えて、イタリアはサルデーニャ王国のもとに統一された(イタリア王国)。(p.341)

 

イタリア全土の完全な統一は、この時点では新国家の手にあまる事業であり、1866年のプロイセン=オーストリア戦争でのオーストリアの敗北によるヴェネツィア地方の取得、70年のプロイセン=フランス戦争のフランスの敗北による教皇国家(領)の併合とローマへの遷都実現が示すように、国際状況の転換が必要であった。教皇国家の武力併合でイタリア国家とローマ教皇庁の関係は以後断絶状態になり、関係修復が実現したのは1929年であった。イタリアは諸地域の独自の性格を維持したまま統一されたので、南部問題(近代化工業化する北部に対する南部の経済格差)や教皇庁との関係など国民統合には多くの課題を残した。さらにトリエステ、南チロルなど「未回収のイタリア」となった地域の回復要求も、その後第一次世界大戦期まで継続する国民的課題となった。(p.341)

 

『ドイツの統一とオーストリアの改編』

三月革命の結果、封建的特権の廃止などの自由主義的改革が実行され、ドイツ統一をめざすフランクフルト国民議会(1848〜49)が選出された。国民議会ではドイツ憲法と統一問題が議論の中心となったがまとまらず、この間に各地で革命の前進を望む民主派と穏健自由派の対立が生まれ、諸君主側の反撃も始まった。プロイセンでは自由主義憲法にかわって鉄定憲法が導入され、オーストリアでも革命運動・民族運動はロシアの援助も得て軍事力で鎮圧され、欽定憲法が一方的に公布された。国民議会で最大の争点となったのはハブスブルク帝国内のドイツ系オーストリア部分を加えた大ドイツ的統一か、オーストリアを除いたプロイセン主導の小ドイツ的統一かであった。最終的には後者に決定し、国民議会は、連邦制・立憲君主制、および世襲皇帝制度を特徴とする帝国憲法を採択したが(1849年3月)、プロイセン国王にドイツ国帝位を拒否されて、ドイツ統一運動は挫折した。(p.342)

 

1863年デンマークがドイツ連邦の規定に反してシュレスヴィヒを編入すると、ドイツ連邦は軍事制裁発動に踏み切り、デンマークを破ってシュレスヴィヒ・ホルシュタインを取り戻し、オーストリアプロイセンの共同管理下においた。さらに、66年には共同管理をめぐる対立から、プロイセンは北ドイツ諸領邦とともにドイツ連邦を脱退し、オーストリアに開戦した。  (プロイセンオーストリア〈普墺〉戦争)。(p.342)

 

プロイセンハノーファー王国を併合して領土を拡大し、北ドイツ諸邦とは北ドイツ連邦(1867〜71)を結成して、バイエルン・バーデンなど南ドイツの国家とは同盟関係を結んだ。統一ドイツの方向が定まったことで、プロイセン議会の自由主義者も分裂し、多数派はビスマルク支持に転換した。一方、ビスマルクも今後は議会の承認なしに予算を執行しないと約束して、議会と和解した。(p.343)

 

フランスのナポレオン3世は、プロイセンの拡大と強国化を阻止しようとして、両国間の緊張を高めていた。ビスマルクはそれを利用してナポレオン3世を挑発し、内外で苦境に立っていたナポレオン3世は1870年、プロイセンに宣戦し、プロイセン=フランス戦争になった。プロイセン北ドイツ連邦バイエルンなど同盟諸邦軍と共同してフランス軍を圧倒した。その間統一ドイツ樹立の交渉もおこなわれ、ドイツ諸君主の永続同盟による連邦制のドイツ帝国設立が合意された。71年1月、パリ包囲戦が続くなか敵地のヴェルサイユ宮殿という異例な場所で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝(位1871〜88)に推挙された。翌年5月フランクフルト講和条約で、アルザス・ロレーヌドイツ帝国編入させ、最終的にドイツ帝国(1871〜1918)の境界が確定した。(p.343)

 

オーストリアはイタリアでの戦争に敗れて、新絶対主義の放棄をよぎなくされ、立憲体制への転換を模索するなかで、プロイセンにも敗北した。ドイツと切り離されたことで国内の再編は不可避となり、1867年ハプスブルク帝国を二分し、ハンガリーを別個の王国と認め、オーストリア帝国と同君連合として結合させるアウスグライヒ(妥協)によって、オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国、1867〜1918)となった。しかし、これはチェコ人などスラヴ系の諸民族の自治要求を強めることになり、以後、オーストリアは民族問題の対応に苦慮することになった。(p.343)

 

ドイツ帝国の成立とビスマルク外交』

ビスマルクは国民にドイツ人としての、また帝国国民としての意識をもたせて、実効ある国民統合の達成を急いだ。自由主義者と協力して、度量衡の統一による国内市場の整備などに努めたが、ドイツ帝国国民意識の浸透、定着は容易ではなかった。そのため、国外の国際的組織と密接な関係をもち、プロイセンによる統一に好意的でなかった国内勢力、とりわけカトリック教会、ドイツ社会主義労働者党(ドイッ社会民主党)などの社会主義運動を「ドイツ帝国の敵」として、それに対抗する国民多数派を結集させる「否定的統合」策がとられた。カトリック教会の影響力を公教育など公的領域から排除し(文化闘争、1871〜80)、社会主義運動に対しては、1878年の皇帝狙撃事件を理由に社会主義者鎮圧法を制定した。(p.343)

 

ビスマルク時代とよばれる帝国創設から1890年までの20年間は、73年の恐慌以来、経済は低成長期にはいり、自由貿易主義から保護主義へと転換し、政治的にも保守的傾向が支配的になった。80年代にはアメリカへの移民を大量に送り出したが、この間にドイツの重工業重化学工業の基礎が築かれた。(p.344)

 

ビスマルクはフランスの報復に備えるため、ドイツが「現状に満足した」国家であることを強調し、現状維持を外交の基調とした。その核心はフランスを国際的に孤立させ、ドイツへの報復行動を不可能にすることで、1873年にはロシア・オーストリアと三帝同盟を結び、ロシア=トルコ(露土)戦争(1877〜78)のサン=ステファノ講和条約をめぐる列強対立では「公正な仲介者」としてベルリン会議(1878)を主宰し、調停に努めた。ベルリン条約でロシアの南下政策はおさえられ、ロシアは以後中央・東アジア方面に向かい、オスマン帝国下のスラヴ系民族の動きは一時的に沈静化した。1879年にはドイツ=オーストリア同盟で関係を強化し、81年にはイタリア・オーストリア三国同盟を結び、フランスを孤立させる同盟網を拡充する一方で、フランスの北アフリカ進出を支援してヨーロッパ外に関心を向けさせるなど、ヨーロッパ内の現状固定化による安定策を追求した。しかし、80年代半ば以降、ドイツ自身も植民地保有国になり、工業発展によって国内からも対外的に積極策が求められるようになった。バルカン半島をめぐるロシアとオーストリアの対立が再燃して、三帝同盟が解消されると、ビスマルクはロシアと再保障条約(1887)を新たに結んで繋ぎ止めをはかるなど、同盟網の維持はしだいに難しくなった。(p.344)

 

『国際組織・国際運動の進展』

19世紀半ばになると、鉄道などの交通手段の改良、郵便。電信・新聞などの情報コミュニケーション網の進展により、国際交流に有利な環境が形成された。もともと国際的連帯志向の強かった社会主義動労働運動では、そうした状況を利用して各国と連携して情報交換や共同行動をとる動きが強まった。(p.346)

 

1864年、ロンドンでイギリス・フランスを中心に各国の社会主義者が集まり国際労働者協会(第1インターナショナル、1864〜76)が結成された。この組織ではマルクスの理論的指導の影響が大きく、創立宣言も彼が作成したが、マルクス無政府主義を唱えるバクーニンらとの対立や、パリ=コミューン支援による各国政府の弾圧を受け、70年代半ばには解散した。(p.346)

 

1889年には、パリで各国社会主義者が集まり新たな国際組織設立を協議し、社会主義政党も成長したことを受けて、各国を代表する社会主義政党のゆるやかな国際連帯組織とする第2インターナショナル(1889〜1914)が結成された。第2インターナショナルでは、当時最大の党組織をもち、マルクス主義を党綱領に掲げたドイツ社会民主党が中心的役割をはたし、反戦と国際平和、8時間労働制の導入などを提唱した。(p.346)

 

軍縮・国際平和の推進の試みには、ロシアのニコライ2世によるよびかけもある。この提唱の目的は、軍拡競争による国家財政の負担軽減にあったが、1899年と1907年の2度にわたってハーグ国際平和会議が開催された。軍縮自体は合意がならなかったが、陸戦・海戦に関する規定など、戦争に関する諸条約(ハーグ条約)が結ばれ、その後の国際法の指針となった。(p.347)

 

国際的活動では、市民から起こったさまざまな人道的活動や、国際文化交流も19世紀後半には活発になった。クリミア戦争、イタリア(サルデーニャ)・オーストリア戦争などでの傷病兵治療活動の経験や戦場の悲惨な状況の見聞から、傷病兵救済活動を国際的に組織するため、1864年スイスのデュナン(1828〜1910)の発案でジュネーヴに国際赤十字が設立された。イギリスのナイティンゲール(1820〜1910)は、赤十字設立には直接かかわっていないが、彼女のクリミア戦争での活動に基づく近代看護学の普及は、赤十字の拡大に貢献した。(p.347)