詳説 世界史研究 第11章 ウィーン体制の成立

ウィーン会議

ウィーン議定書により、フランス・スペイン・ナポリブルボン家が王位に復帰したほか、ローマ教皇領が復活した。ポーランドでは、ロシア皇帝を王とするポーランド王国が成立した。また、プロイセンザクセンの一部とライン川左岸地域を得る、オランダはオーストリアから南ネーデルラント(ベルギー)を得る、オーストリアロンバルディアヴェネツィアを併合する、ロシアはスウェーデンからフィンランドを割譲されるなど、一部で国境の修正がなされた。スイスは永世中立国となった。神聖ローマ帝国の復活は実現しなかったが、オーストリアプロイセンを含む39のドイツ諸邦・自由市からなるドイツ連邦が成立した。(p.322)

 

ヨーロッパ大陸外をみると、圧倒的な利益を得たのはイギリスであった。オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得し、フランスからマルタ島を得ることにより、国際的な植民地網を構築するための要所を手中にしたからである。圧倒的な経済力・軍事力に基づくイギリスの影響のもと国際的には比較的平和が保たれることになる(パクス=ブリタニカ)。(p.322)

 

ウィーン体制の基本的な理念は、フランス外相タレーラン(1754〜1838)が唱え、革命以前の領土・主権・社会秩序に復帰することを主張する「正統主義」であった。正統主義に基づく国際秩序を維持することを目的として、列強間では神聖同盟と四国同盟という2つの同盟が結ばれた。前者は、ロシア皇帝アレクサンドル1世(位1801〜25)が提唱した君主間の同盟であり、キリスト教的な「正義、愛、平和」に基づいて行動することを誓うという、多分に精神的なものだったが、イギリス・オスマン帝国教皇を除く全君主が参加した。後者はイギリス・オーストリアプロイセン・ロシアの4国が結成した軍事同盟であり、のちにフランスも参加を許されて五国同盟(1818)となるが、革命の再発を防止し、ウィーン体制を守るためには武力行使を含めて対応することが定められた。(p.322)

 

ウィーン体制の動揺と七月革命

1815年、イエナ大学(ザクセン)で結成された学生組合「ブルシェンシャフト」は「名誉・自由・祖国」という標語のもと、自由主義的な改革とドイツの統一を求め、瞬く間に各地の大学に広まった。危機感をいだいたメッテルニヒはブルシェンシャフトを解散させ、思想統制を強めたが、自由主義的なドイツ統一運動はその後もかたちを変えて続いた。(p.323)

 

イタリア半島では、20年代にはいり、自由主義立憲君主政・イタリア統一をめざす秘密結社カルボナリがナポリトリノ武装蜂起し、憲法の制定や君主の交替を実現したが、オーストリア軍の介入によって弾圧された。(p.323)

 

ロシアでは、25年、皇帝専制に反対する軍人たちが武装蜂起した(デカブリスト〈十二月党員〉の乱)が、ただちに鎮圧された。(p.323)

 

フランスでは、復古王政を開いたルイ18世は、旧体制への復帰と近代市民社会の受容の間で揺れ動いた。ところが、彼の後を継いだシャルル10世(位1824〜30)は、革命の成果を否定する立場を明らかにし、国民多数の不安と不満を惹起した。政府はアルジェリア出兵などによって、不安や不満の鎮静化をはかったが、1830年6月から7月にかけて実施された代議院(下院)議員選挙では自由主義派が勝利した。これに対して国王は、代議院の解散を強行するとともに、参政権を制限する王令を発した。反発したパリ民衆とブルジョワジー武装蜂起し、3日間の戦闘ののちに国王に亡命を強いた(七月革命)。ブルボン系の傍系であるオルレアン家のルイ=フィリップ(位1830〜48)が王位に就き、自由主義的な立憲君主政である七月王政が始まった。(p.324)

 

七月革命の成功は、ヨーロッパ各地で、自由主義ナショナリズムを活性化させた。ベルギーでは、ただちにオランダからの独立をめざす革命が勃発して成功し、独立宣言の発布と臨時政府の成立をへて、翌31年、立憲君主政が成立した。ドイツ諸邦では、ザクセンハノーファー憲法制定を求める運動が生じ、立憲君主政が成立した。スペインでは、国王フェルナンド7世が死去すると自由主義派と正統主義支持派の間で王位継承をめぐる内戦が勃発したが、前者の優位というかたちで休戦協定が結ばれた(カルリスタ戦争、1833〜39)。(p.324)

 

一方で、イタリア半島では、教皇領・ボローニャ・モデナなど中部各地でカルボナリが蜂起したが、オーストリア軍に鎮圧され、退潮した。その後の統一運動の中核は、カフルボナリ党員だったマッツィーニ(1805〜72)が敗北の混乱のなかで結成した青年イタリアG(1831)によって担われることになる。ポーランドでは、ナショナリスト自由主義者が、ロシアからの分離独立を求めて蜂起した(1830)が鎮圧され、逆にロシアの政治的・軍事的な監視が強化されるという事態を招いた。(p.325)

 

『イギリスの自由主義的改革』

ナショナリズムに基づく改革については、そもそもイギリスは神聖同盟は無意味であるとして参加せず、四国同盟(五国同盟)についても、1822年以降は実質的に脱退し、ウィーン体制から距離をおくことを表明していた。またラテンアメリカ諸地域の独立運動に対しては、正統主義の観点から弾圧のための武力介入を主張するメッテルニヒに対して、自国生産品の市場を開拓するチャンスと考えて独立を支持する態度をとった(カニング外交)。(p.325)

 

18世紀に大西洋三角貿易が最盛期を迎えるなかで、イギリスはアフリカからアメリカ合衆国への奴隷貿易をほぼ独占するにいたった。しかし、アメリカ独立革命フランス革命の思想的影響のもと、イギリスでは人道主義的で自由主義的な世論が高まり、奴隷制度反対運動が展開された。その結果、奴隷貿易の禁止(1807)と奴隷制度廃止法の制定(1833)をへて、すべての奴隷の解放が実現した(1838)。(p.325)

 

1801年、グレートブリテン王国アイルランド王国の合同が実現した(連合王国)が、実際は前者による後者の併合だったため、アイルランド人、とりわけ同地の多数派にしてイギリス全体では少数派であるカトリック教徒に対する差別が生まれた。17世紀以来、公職に就くには国教徒でなければならないことが法制化されていた(審査法)からである。アイルランド人は差別反対運動を展開し、審査法の廃止(1828)とカトリック教徒解放法の制定(1829)をかちとった。(p.325)

 

1832年に選挙法が改正(第1回選挙法改正)され、腐敗選挙区の廃止と、工場や企業の経営者を中心とする一部ブルジョワジーに対する参政権の付与が実現した。ただし。制限選挙制度は維持されたため、政治空間から排除された民衆は、30年代後半から40年代にかけて、男性普通選挙制度の採用などを主張する「人民憲章」を掲げて請願する運動(チャーティスト運動)を展開した。(p.326)

 

1815年、穀物価格が一定額以下に低下した場合には輸入穀物に関税を課す穀物法が制定されたが、これは地主のために経営者や労働者の利害をそこなう法とみなされた。39年、コブデン(1804〜65)やブライト(1811〜89)は反穀物法同盟を結成し、穀物法は労働者の賃金さらにはイギリス工業製品の価格を引き上げ国際競争力を失わせているとともに、とりわけ労働者以外の民衆の購買力に打撃を与えているとして、同法の廃止を要求した。同盟の活動は大きな反響をよび、穀物法は46年に廃止された。(p.326)

 

自由貿易主義を旗印として、東インド会社の貿易特権が廃止され(インド統治法、1833)  また航海法も廃止される(1849)など、経済的自由主義に基づく自由貿易体制の確立が推進された。(p.326)

 

ギリシアの独立と東方問題』

1826年、イギリス・フランス・ロシア3国は軍事介入を開始し、翌年、ナヴァリノの海戦で帝国艦隊を壊滅させた。さらにロシアはオスマン帝国に正式に宣戦布告し、優勢下に戦争を進めて、1829年にアドリアノープル条約を結び、ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由通行権とギリシアの独立を認めさせた。翌年ロンドンで国際会議(ロンドン会議)が開催されて独立は国際的に承認され、2年後にギリシア王国が成立した。(p.327)

 

1831年には、今度はオスマン帝国の属州として一定の自治を認められていたエジプトで帝国の支配に抵抗する動きが生じた。エジプト太守(パシャ)ムハンマド=アリーは、ギリシア独立戦争オスマン帝国軍を支援した見返りとしてシリアの領有を要求し、これを拒否した帝国と開戦したのである(第1次エジプト=トルコ戦争、1831〜33)。ロシアは南下政策を進めるべくオスマン帝国を支持し、これに対抗するべくイギリスとフランスはオスマン帝国にエジプトとの和解を強い、シリアはエジプトの支配下におかれた。この結果に不満をいだくオスマン帝国とロシアは相互援助条約(ウンキャル=スケレッシ条約、1833)を結び、前者後者にダーダネルス・ボスフォラス両海峡の軍艦通行独占権を与えた。(p.327)

 

ところが今度は、東地中海地域における主導権をめぐり、イギリスとフランスが対立するという事態が生じた。フランスがエジプトに接近すると、イギリスはロシア・オーストリアプロイセンとともにオスマン帝国の支持にまわり、再度エジプトとオスマン帝国が開戦すると(第2次エジプト=トルコ戦争、1839〜40)帝国側に立って参戦し、戦争を終結させた。1840年、戦後処理のためにロンドンで国際会議(ロンドン会議)が開催され、イギリスの主導のもと、エジプトがシリアの領有を放棄することと、ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の軍艦通行を禁止することが定められた(ロンドン条約)。翌年、ウンキャル=スケレッシ条約は破棄された。(p.327)

 

『近代市民社会を批判する諸思想の出現』

社会問題の発生や労働組合活動の活発化という事態に対処するべく、政府は、功利主義(哲学的急進主義)の影響のもと、最小限の国家介入を認める方向に政策を転換し、未成年者の労働時間制限と労働監督官の設置を定めた一般労働法(工場法、1833)、「院内救済」(貧民をワークハウスとよばれる施設に収容する)と「劣等処遇原則」(貧民に最低賃金以下での労働を義務づける)をキーワードに、貧民の救済と労働意欲向上の両立をめざす救貧法(1834)、都市部の生活環境改善を担当する行政機構を整備する公衆衛生法(1848)などを制定した。(p.329)

 

『1848年革命』

七月王政は、復古王政に引き続いて(必要納税額は引き下げたものの)制限選挙制度を採用した。そのため、参政権を得られなかった小ブルジョワジーや民衆は不満をいだき、参政権の拡大や男性普通選挙制度の採用など選挙制度改革を求める運動に乗り出した。さらに、1845年からは不作が続き、農民の多くが困窮した。彼らは衣料など工業製品の購入を控えたため、今度は工業部門が不況に陥り。フランス経済全体が危機を迎えることになった。貧しい民衆の不満は高まり、各地で騒擾が発生した。(p.329)

 

1848年2月、このような状況のもと、立憲君主政派左派や共和派は、パリで選挙制度改革を要求する集会を計画した。政府は集会を禁止したが、おりからの不況で反政府感情を強めていたパリ民衆は武装蜂起し、3日間のバリケード戦のすえ、国王ルイ=フィリップに退位と亡命を強いた。これが二月革命である。ただちに社会主義者ルイ=ブランや労働者を含んだ臨時政府が組織され、共和政(第二共和政)への移行と男性普通選挙制度の採用を宣言した。政府は、社会主義者や民衆からの圧力もあって、集会および出版に関する自由権、さらには生存権・労働権・結社権などの社会権を認めた。また、ルイ=ブランの所説にヒントを得た「国立作業場」を設置して失業者を救済するとともに、民衆の代表者が労働条件について政府に諮問するための機関(リュクサンプール委員会)を設置するなど、社会問題に取り組む姿勢をみせた。(p.330)

 

4月、男性普通選挙制度に基づく憲法制定国民議会選挙が実施された。同議会では穏健共和派が多数を占め、穏健政策路線への方針転換がはかられた。臨時政府にかわって行政権を行使するために執行委員会が設置されたが、議会で選出された執行委員のなかに社会主義者はいなかった。執行委員会は国立作業場を閉鎖したため、不満をもったパリ民衆は再度蜂起に訴えた(六月蜂起)が、武力で鎮圧された。(p.330)

 

11月、三権分立(大統領・立法議会・司法)を定めた憲法が制定された。翌月、男性普通選挙制度に基づく大統領選挙が実施されたが、圧倒的な得票数で初代大統領に当選したのはナポレオンの甥として抜群の知名度を誇るルイ=ナポレオン(任1848〜52)であった。(p.331)

 

1852年11月、帝政復活の是非を問う人民投票が実施された。大統領選挙にも増して圧倒的な支持を得たルイ=ナポレオンは、クーデタのちょうど1年後、皇帝ナポレオン3世(位1852 70)として即位した第二帝政開始である。(p.331)

 

『諸国民の春』

二月革命が最大の反響をよんだのはオーストリアである。革命は早くも翌3月にはウィーンに飛び火し、民衆が基本的人権の保障や憲法の制定を求めて蜂起した(三月革命)。ウィーン体制の支柱にして象徴的な存在だったメッテルニヒは失脚し。イギリスに亡命をよぎなくされた。(p.331)

 

ハプスブルク帝国領内をみると、ハンガリーではコシュート(1802〜94)を指導者とするナショナリストが完全な独立、農奴制と封建制度の廃止、憲法の制定を求めて蜂起し、北イタリアのロンバルディアやヴェネトでは独立を求める反乱が生じ、ベーメンボヘミア)では連邦制度の導入を求める「スラヴ民族会議」が開催されるなど、自由主義ナショナリズムに基づく運動が各地で勃発した。しかし、これら一連の運動は、自国への飛び火を恐れるロシアがハプスプブルク帝国側を軍事的に支援したこともあり、最終的には体勢を立て直した皇帝側によって武力鎮圧された。(p.332)

 

ドイツ諸邦では、同じく3月、プロイセンの首都ベルリンにおいて憲法制定を求める民衆蜂起が生じた(三月革命)。(p.332)

 

「諸国民の春」にさいしては、正統主義と自由主義ナショナリズムが対立しつつ併存し、自由主義の内部で経済的自由主義と政治的自由主義が矛盾し、そして社会主義労働組合運動など自由主義に批判的な思想や運動が出現するという、ウィーン体制が重層的なかたちではらんでいた諸問題が、一気に噴出した。かくして正統主義・勢力均衡と自由主義ナショナリズムがせめぎ合うウィーン体制は終焉を迎え、自由主義ナショナリズムが定着して両者の是非が問われる時代が始まった。(p.332)