詳説 世界史研究 第9章 重商主義と啓蒙専制主義

重商主義

重商主義の具体的内容は、時期や国によりさまざまであった。ラテンアメリカの植民地での銀山開発に力を入れた16世紀スペインに典型的にみられたように、早い時期には金銀そのものの獲得・蓄積をめざす動きがめだった。これを重金主義という。しかし、その後、国の富についての考え方が変化し、フランスやイギリスの17世紀後半以降の例がよく知られているように、輸入を抑制し輸出を促進することによって国際収支を改善しようとする考え方に重商主義政策の重点は移っていった。この考え方が貿易差額主義である。(p.276)

 

コルベールは東インド会社を1664年に再建し、アジア貿易にあらためて力を入れ始めた。この再建東インド会社には国王も多額の出資をおこなうとともに、有力商人が多数参加している。コルベールはまた、同64年には西インド会社も設立し、アフリカ西岸・アメリカとの貿易の振興をめざしたが、こちらは10年後に解散となった。さらに彼は、国内の商品移動の活発化をはかる一方、ゴブラン織などの輸出向け商品を製造するための特権をもった王立マニュファクチュアを創設するなどして、国内の商工業を育成した。コルベールによるこのような貿易振興と商工業育成をめざす政策はコルベール主義とよばれ、近世ヨーロッパの重商主義政策の代表例とされている。(p.276)

 

『イギリス革命』

当時のイギリスでは、旧来の領主層が相対的に力を失い、独立自営農民(ヨーマン)が活躍し、富農の一部には副業として毛織物マニュファクチュアを営む者もいた。商工業の発達で市民層が成長していくなか、このような経済社会の新しい動きにも対応する大地主(貴族・ジェントリ)は、地方行政や議会で重要な役割を演じて政治的な力をつけつつあった。(p.277)

 

戦況は、内戦が始まっしばらくは王党派が優勢であったが、議会派のなかで独立派のクロムウェル(1599〜1658)が、ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊、さらにそれをもとにした「ニューモデル軍」を編制して、1645年のネイズビーの戦いに勝って、議会派を軍事的勝利に導いた。その後、クロムウェルは議会から長老派を追放し、49年1月チャールズ1世を処刑して、3月には共和政を打ち立てた。(p.278)

 

クロムウェルは議会政治を推進した革命の指導者であったが、ジェントリの出身であった彼は、より民主主義的な主張を掲げて議会派の軍隊内で支持を広めていたリルバーン(1614頃〜57)ら水平派(平等派)を弾圧した。また、王党派の拠点となったとしてアイルランドスコットランドを征服し、その過程では凄惨な虐殺事件も起こった。とくに、大規模な土地没収が強行されたアイルランドは、事実上植民地化された。(p.278)

 

同時に、クロムウェルの革命政権のもとでは重商主義的な通商政策が推進され、1651年に制定された航海条令(王政復古後、正式の議会制定法として継承されて航海法となる)は、イギリスとその植民地への輸入品をイギリスか原産国の船で輸送することを定めた。これは、中継貿易で繁栄していたオランダに打撃を与えるものであった。このため、両国間に第1次のイギリスオランダ戦争英蘭戦争、1652〜54)が起こった。海外植民地の獲得をめぐっても争っていた両国の戦いは、その後60年代と70年代にも繰り返されたが、イギリス優勢のうちに終わった。(p.278)

 

『イギリス議会政治の確立』

チャールズ2世は専制的な姿勢をみせるようになり、カトリック教徒の擁護を試みたので、議会は1673年に審査法(テスト=アクト)を制定して官吏をプロテスタントである国教徒に限定した。さらに79年に議会は不当な逮捕投獄を禁じた人身保護法を制定して市民的自由を保障しようとした。この時期、議会は立法府として活性化し始め、70年代末頃には、国王の権威を重んずるトーリ党と議会の権利を主張するホイッグ党という2つの政治党派が誕生し、議会内外で活動するようになっていた。(p.279)

 

1721年、ホイッグ党ウォルポール(任1721〜42)が実質的に初の首相の座に就き、20年以上にわたって内閣を率いて政局運営に強い力を発揮した。42年に彼は、国王の信任は得ていたものの、議会で安定した支持を確保できなくなると辞任し、その後、内閣は国王にではなく議会に対して責任を負うという責任内閣制が徐々に形成されていった。このように、名誉革命後には政治体制の安定化が進んだが、それとともにイングランド銀行の創設(1694)、国債制度の整備もおこなわれて、財政面からもイギリスの対外戦争を遂行する能力は急速に高まった。(p.281)

 

ルイ14世の統治』

強大な権力をふるったルイ14世のもとでも、貴族や都市自治体などの特権的な中間団体が依然として無視しがたい勢力を保持していた。そのため、王権による中央集権化の進展はゆるやかなものにとどまった。(p.282)

 

『フランスの脅威』

1713年のユトレヒト条約によって、ルイ14世は、スペイン・フランス両国は合同しないという条件で、孫のフェリペ5世のスペイン王位を各国に認めさせることができた。しかし、その代償としてイギリスがスペインからジブラルタル・ミノルカ島、フランスからニューファンドランドアカディアハドソン湾地方を獲得したことは、イギリスこそがこの戦争の勝利者であったことを示している。また、オーストリアは翌14年に結ばれたラシュタット条約でスペイン領ネーデルラント(ベルギー)を得た。(p.283)

 

1685年にナントの王令が廃止されて、ユグノーの商工業者が大量に亡命したことで、フランス国内の産業発展も阻害された。1715年にルイ14世の曾孫のルイ15世(位1715〜74)が王位を継いで、その治世中に外国貿易は急増したが、国王は政治的な指導力を欠き必要な改革は先送りされた。(p.283)

 

プロイセンオーストリア

大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムの子のフリードリヒ3世のもとで、プロイセンはファルツ戦争に参加し、さらにスペイン継承戦争神聖ローマ皇帝の側に立ったことで1701年王国への昇格を認められた。これにより、選帝侯フリードリヒ3世は初代プロイセン国王フリードリヒ1世(位1701〜13)となった。(p.283)

 

フリードリヒ2世(大王、位1740〜86)がプロイセン王位を継いだ直後に、オーストリア=ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール6世(位1711〜40)が死亡した。男子後継者のいなかったカール6世は、生前、自らの死後は娘のマリア=テレジア(位1740〜80)がハプスブルク家領を継承することを定めた勅書「プラグマティシェ=ザンクティオン(王位継承法)」を出して、関係国の同意を取りつけていたが、フリードリヒはマリア=テレジアによるハプスブルク家の領土継承に異議を唱えて、資源の豊かなシュレジエンを占領した。彼は、自らの継承権を主張するバイエルン公や、フランス王らとともに、イギリスの支援を受けたオーストリアと戦い、48年のアーヘンの和約で、マリア=テレジアの継承権は認めたものの、シュレジエンを確保することができた。これが、オーストリア継承戦争(1740〜48)である。(p.283)

 

数年後、あくまでもシュレジエンの奪回をめざすマリア=テレジアは、外交政策を大胆に転換して、長年敵対関係にあったフランスと同盟した(外交革命)。(p.284)

 

プロイセンなど東ヨーロッパの国々では、西ヨーロッパで改革の担い手になった市民層の成長が十分ではなかった。このため、君主主導によって改革を進める体制(「上からの近代化」政策)がとられたが、これを啓蒙専制主義という。フリードリヒは啓蒙専制君主の典型とされるが、その統治は、ユンカーが農民を強く支配する体制を基盤とした、非近代的性格の強いものであった。(p.284)

 

18世紀半ばには、マリア=テレジアが、プロイセンとの戦争に備えて種々の内政改革をおこない、さらに、その子のヨーゼフ2世(位1765〜90)は啓蒙専制君主として、宗教面での寛容政策や農奴解放など、上からの近代化に努めた。しかし、ヨーゼフによる中央集権主義的な改革は、既存の特権を守ろうとする貴族や地域社会から強い抵抗を受け、挫折したものが多かった。(p.285)

 

北方戦争とロシア』

ロシアでは、1670年頃に、ドン=コサックの出身のステンカ=ラージン(1630〜71)による農民反乱が起こった。反乱はヴォルガ川流域のいくつかの都市を占領したが鎮圧され、彼はモスクワで処刑された。その後に帝位に就いたピョートル1世(大帝、位1682〜1725)は1690年代に自ら西欧諸国を視察しこれを模範に西欧化改革を進めた。(p.285)

 

1690年代末から、ロシアの海の出口を西のバルト海に求める考えが強まった。当時バルト海を支配していたスウェーデンで、年少のカール12世(位1697〜1718)が王位に就くと、ピョートルはポーランドデンマークと結び、1700年にはスウェーデンへの攻撃を開始したこれが北方戦争大北方戦争、1700〜21)である。(p.286)

 

18世紀後半、夫のピョートル3世がクーデタで廃位されて、女帝となったエカチェリーナ2世(位1762〜96)は、ピョートル1世の事業を受け継ぎ30年以上にわたったその治世でロシアをさらに強大化させた。南方では、オスマン帝国とロシア=トルコ(露土)戦争を戦って1774年にキュチュク=カイナルジャ条約を結び、その後クリミア半島のクリム=ハン国を併合した。東方では、すでに18世紀前半にベーリング(1681〜1741)がベーリング海峡を渡ってアラスカに到達していたが、エカチェリーナ2世治下ではオホーツク海の探検が進んだ。彼女は日本人漂流民の大黒屋光太夫(1751〜1828)と91年に会い、翌年使節ラクスマン(1766〜96以後)を日本に送った。(p.286)

 

エカチェリーナは啓蒙思想家のヴォルテールと交流して、啓蒙専制君主として種々の改革を治世の初期には試みている。しかし、プガチョフ(1742頃〜75)が指導する大規模な農民反乱(1773〜75)が起こり、鎮圧に苦労すると、それ以後は貴族と妥協して、農奴制を強化するようになった。(p.287)

 

ポーランドの分割』

ポーランドでは、16世紀後半にヤギェウォ朝が断絶したのちは選挙王制となった。(p.287)

 

1794年、コシューシコ(コシチューシコ、1746〜1817)の率いる反乱が起こった。彼は、ポーランド人でありながらアメリカ独立革命義勇兵として参加したことで知られ、帰国して1791年憲法の制定にもかかわった人物であった。(p.287)