詳説 世界史研究 第5章 西ヨーロッパ世界の成立

ゲルマン人の大移動とメロヴィング朝の成立』

ローマ軍人として出世をはたしたテオドリック(位473頃〜526)は、476年に同じ東ゴート人でローマ帝国傭兵隊長オドアケル(434頃〜493)が西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥルス(位475〜476)を廃位する事件を起こす(西ローマ帝国の滅亡)と、東ローマ皇帝ゼノンZ(位474〜491)の命で、東ゴート軍を率いてイタリアへ進軍した。テオドリックは皇帝の命に反し、オドアケル討伐後もイタリアにとどまり、493年にラヴェンナを首都する東ゴート王国(493〜555)を建国した。(p.154)

 

5〜6世紀の西ヨーロッパでは、イタリアの東ゴート人を中心に、西ゴート、ブルグンドといった部族王権の多くが、すでにニケーア公会議で異端を宣告されていたアリウス派を信奉していた。フランク王クローヴィスは496年、戦士層のフランク人とその支配下にあってローマの優れた行政技術を継承するガロ=ローマ人との信仰の一致をはかり、また国外のアリウス派勢力に対抗すべくゲルマン固有の地域信仰からカトリックアタナシウス派)への改宗をはたした。(p.155)

 

『ローマ=カトリック世界の形成』

東ゴート王国統治下のイタリアにおいて、529年頃ヌルシア生まれの聖ベネディクトゥス(480頃〜547/560頃)が、ローマ近くのモンテ=カシーノの山頂に修道院を建て、同院の生活規範として独自の戒律を定めた。そのなかでベネディクトゥスは、手労働と定時の祈り(時課)を重視し、周辺の幼児を修道士として受け入れる手続きを整え、修道院長に絶大な権限を認めた。このベネディクト戒律は、7世紀以降、ガリアやイングランドからヨーロッパ全土に広まり、同戒律を受容した修道院はベネディクト派修道院とよばれ、ラテン=キリスト教世界における修道制の基本となった。(p.155)

 

ローマでは、ローマの名門貴族の出でローマ市長も務めたグレゴリウスがローマ教皇となり(グレゴリウス1世、位590〜604)、ランゴバルド人のカトリック化を促したり、ランゴバルド王国とビザンツ帝国との和平を仲立ちする一方、西ヨーロッパ各地でのキリスト教の布教、教義や典礼の統一を推し進めた。596年には異教に戻っていたイングランド東部のアングロ=サクソン人に改宗を促すために、カンタベリのアウグスティヌス率いるベネディクト派修道士の一行を派遣した。(p.155)

 

カロリング朝の成立とカール大帝

メロヴィング朝では、7世紀以降、三分王国制(アウストラシアネウストリア・ブルグント)が敷かれ、王国の運営は宮宰(マヨル=ドムス)職に委ねられていた。(p.156)

 

ビピンは、ランゴバルド勢の圧力に苦闘する教皇を相手に、王位の承認を受ける見返りとしてイタリアに派兵し、756年ランゴバルド王国からラヴェンナ総督領を奪取してそれを教皇に献納した(「ピピンの寄進」)。これらの領土が、教皇座の財政基盤となる教皇領(教皇国家)の起源となった。ここに、教皇が王に権威を与え、王が教皇座およびキリスト教世界の防衛を引き受けるという、アルプスをまたぐラテン=キリスト教世界ならではの君主・教皇関係が築かれた。(p.157)

 

ピピンの死後、長男のカール1世(カール大帝シャルルマーニュ〉、位768〜814)が王位を継承した。カールは父ピピンの政策を引き継ぎ、半世紀近い治世の大半を費やして、南フランスおよびピレネー山麓(スペイン北東部)・北イタリア・パンノニアザクセンと、王国の全方位に支配圏を拡張した。これは同時に、イスラーム教徒やアヴァール人・ザクセン人といった辺境を脅かす異教徒に対する防衛戦争であり、また異教徒の武力によるキリスト教化を進める政策でもあった。(p.157)

 

遠征のたびに広がる領土の統治効率を高めるために、司教区制を全土に徹底するとともに、地方に国王役人である伯を配置する伯領制を敷いた。また、中央からの命令の伝達、地方の実情調査の目的で、聖俗各1名の有力者を国王巡察使(ミッシ=ドミニキ)     として、毎年、各地に派遣した。一方でカール1世は、国内だけでなく、イタリアやスペインからも高い学識を備えた人材を積極的に招致し、宮延顧問とした。なかでも、イングランド出身でヨーク司教のアルクイン(735頃〜804)は、宮廷学校の校長に就任し、カールの文化事業の指揮を執った。(p.157)

 

ビザンツ帝国において皇帝レオン3世(位717〜741)が726年に聖画像禁止令を発し、聖画像の崇敬の是非をめぐる論争が巻き起こると、ローマ教皇はこれをビザンツ皇帝権からの離脱の好機ととらえ、西ヨーロッパで最大の実力者に昇りつめたカール1世との提携を求めるようになった。799年、市民の暴動でローマを追放された教皇レオ3世(位795〜816)は、自らアルプスを越えてザクセン戦争中のカールに来援を求めた。軍勢を率いてローマ入りしたカールを、レオは800年のクリスマスの日、聖ピエトロ大聖堂でローマ皇帝に加冠した。これにより古代ローマ皇帝の称号を公式に引き継ぐ権力がローマに復活したが、皇帝が支配する版図や国の成り立ちはまったくの別物であった。(p.158)

 

『ノルマン人の移動とカロリング後の世界』

8世紀末以降、スカンディナヴィア半島を本拠地とするノルマン人(デーン人、ヴァイキング)  がヨーロッパ各地に襲来し、甚大な被害を与えた。ブリテン島周囲の制海権を掌握したデーン人は、アイルランドイングランド北西岸にも攻め入った。9世紀後半になると、デーン人は略奪から定住へと目的を転じ、イングランドの内陸深くにまではいり込むようになった。ウェセックス王アルフレッド  (位871〜899)は、沿岸防備の強化をはかり、デーン人に対抗したが、アングロ=サクソン人の七王国の大半が滅ぼされた。(p.159)

 

北海を南下してフランス西部の海岸にいたったノルマン人は、セーヌ川・ロワール川を遡行して、流域の修道院や司教座都市をおそった。この事態に対処するために、襲撃時に寵城するための城塞が河川流域にそって建造された。ノルマン人の首領ロロ(860頃〜933)は、ヴァイキングの侵攻を防ぐことを条件に、西フランク王シャルル3世(位893〜922)からノルマンディー地方の領有を認められた(ノルマンディー公領の成立)。(p.159)

 

一方、バルト海からドニエプル水系を航行して黒海にいたったノルマン大は、河川交易と略奪を交互におこなっていたが、9世紀半ば頃に、周辺の東スラヴ系諸族とともに、キエフ公国(キエフ=ルーシ)を建国した。(p.159)

 

『中世的農業社会の形成と貴族』

土地を所有する領主は、その土地を開墾・干拓して耕地化し、支配下農奴や近隣の農民に耕地の耕作・種まき・刈取りなどの作業を担わせた。領主と農民の関係や貢租の種類や額、土地経営の規模などは、時代や地域によってさまざまであったが、この土地領主制(荘園制)  が、中世ヨーロッパにおける土地経営の基本型であり、またあらゆる権力にとって主たる財政基盤であった。(p.160)

 

7世紀に、ライン川とロワール川間にある王領地で普及した土地領主制(古典荘園制)では、土地が、領主が直接経営する領主直営地と、農民に小作地として貸与される農民保有地(マンス、フーフェ)に分けられた。領主直営地では、農作業は不自由民である農奴賦役と自由民である農民がおこなう労働に依存し、農民保有地では、農民が自ら農作業をおこない、収穫の一部を土地貸与の対価(貢租)として領主におさめた。農民は耕地の近くに村落を形成し、共同で薬園を営み、森林や放牧地、水車などを共同で利用した。農民が村落に集住することで、より効率の高い農法を用いることが可能となった。(p.160)

 

深耕が可能な重量有輪犂の使用や馬を犂に繋ぐ繋駕法の改良、秋耕地、春耕地、休耕地からなる三圃制による耕地の効率的な利用により、収穫高は増えていった。(p.161)

 

領主は、荘園内に領主館を構え、貢租に加えて領外結婚税や死亡税などの徴税によって村民を収奪する一方で、さまざまな保護を村民に与えた。また、王権から不輸不入権(インムニテート)を得ることで国王役人による徴税や裁判から荘園を保護した。(p.161)

 

カロリング朝以降、伯や大公などの国の役職者が任地で王権を代行する過程で、王から下賜された所領や役職にともなう諸特権を得て、これらを家門として世襲する貴族が台頭した。貴族は大小さまざまな土地の領主であり、大土地を所有する貴族(諸侯)はその土地の一部を封土として他の自由人に与えるかわりに、彼らに軍事奉仕や助言の提供を求めた。前者を主君(封主)、後者を家臣(封臣)とするこの封建的主従関係は、托身と誠実宣誓からなる臣従礼という儀式を通じて取り結ばれた。異民族の侵攻などに集団で対処するための知恵として生まれた封建制は、城を構える主君のまわりに多くの戦士、とくに戦場で騎馬で戦う騎士を集めることとなった。(p.161)

 

十分の一税は収穫物の10%を教会におさめる税制で、『旧約聖書 』に根拠をもつ。カール大帝は同税を「フランク王国に住むすべての住人が教会におさめるべき税金」と定めた。司教は十分の一税の用途や配分を決定する権限をもっていたが、通常は教区教会が徴収し、そのうちの4分の3を手許におき、残りの4分の1を司教におさめた。十分の一税は、おもに教区教会の運営や貧者への施しに使用された。(p.161)

 

カロリング朝後の西ヨーロッパ』

ルートヴィヒ敬虔帝による教会改革の精神を受け継ぐ修道士と、自己の魂の救済のために厳格な信仰実践を旨とする修道院の建設を希望していたアキテーヌ公の協力により、ブルゴーニュ地方にクリュニー修道院が創設された。クリュニーは死後の魂の救済に欠かせない修道士の祈禱を重視し、周辺の諸侯から土地の寄進を受けながら、その対価として寄進者の魂のための祈禱を請け負った。祈禱者としての修道士の地位を確立するクリュニーの改革は、各地の修道院に飛び火し、王侯の支援や教皇の庇護を受けながら一大改革運動へと成長していった。(p.161)

 

ローマ周辺の政治情勢が緊迫するなか、教皇の救援要請に応えたオットーは、ローマに遠征し、962年、教皇より長らく空位であったローマ皇帝に加冠された(ローマ皇帝位の復活)。(p.162)

 

オットー朝のおよそ100年間の統治のなかで、東フランク王国は実質上、ザクセン・フランケン・バイエルン・シュヴァーベン・ロートリンゲンといった大公国によって構成されるドイッ王国としての実質を整えた。と同時に、アーヘンで戴冠したドイツ王が、アルプスを越えてローマに赴き、教皇からローマ皇帝の冠を受けることが期待される神聖口ーマ帝国(962〜1806)としての土台が築かれた。(p.162)

 

隣国の西フランク王国では、カロリング家を継ぐ強大な王家が登場せず、ブルターニュ伯領、ノルマンディー公領などの諸侯が全土に台頭した。987年にカロリング家最後の王が死去し、同家の男系血統が断絶すると、王国集会が召集され、フランキア大公でパリ伯のユーグ=カペー(位987〜996)が王位継承者に選出された。ここにカペー朝が創始され、1328年までフランス王国の君主を輩出しつづけることになる。(p.162)

 

英仏海峡を渡ったアングロ=サクソン人の地でも、9世紀末から10世紀初にかけてアルフレッドなどのウェセックス王によってイングランドの統合が進み、973年にカンタベリ大司教が司式する国王戴冠式では、王エドガー(平和王位959〜975)は「全ブリテン島の皇帝」を名乗った(イングランド王国の成立)。(p.163)

 

『改革教皇権と東西教会の分裂』

1049年にレオ9世  (位1049〜54)が改革派の知識人を同伴して教皇に即位すると、その後数世代の教皇の治世にまたがる教皇座の改革が始まった。そのなかで教皇の地位は、世俗の王や皇帝の恣意ではなく、枢機卿団による選挙によって選ばれるべきものとされ、全キリスト教世界の霊的指導者と明確に定義された。教皇は自ら各地に赴いて教会会議を主催し、教会組織や信仰に関するさまざまな問題を決裁する一方、指示を記した教皇書簡を送ったり、また教皇の代理として教皇特使を派遣したりすることで、教皇座の改革の方針を各地の教会に伝達した。(p.164)

 

教理上の問題で対立を深めていたローマとコンスタンティノープル両教会の関係は、外交上のトラブルを直接の契機として、1054年教皇と総主教が互いに破門を宣告し合う結果となった(「大分離」)。この事件は、改革のなかで教皇の絶大なる地位(首位権)を主張し始めたローマ=カトリック教会に対し、コンスタンティノープル教会が東方正教会の由緒ある首長として反発したために起こったものであった。分裂した東西教会の再合同(教会合同問題)はそれが形式的にせよはたされた1453年まで、キリスト教世界の重要課題でありつづけた。(p.164)

 

改革派の急先鋒たるヒルデブラントが、グレゴリウス7世(位1073〜85)として教皇に即位すると、教皇座の改革はローマを越えてキリスト教世界全体を巻き込む急進的な改革となった。改革の主眼は、聖職売買(シモニア)と聖職者妻帯の禁止におかれたが、ミラノ司教選出をめぐる事件をきっかけに、ドイツ国王との間で司教の叙任権をめぐる政治的な対立に発展した(聖職叙任権闘争)。(p.164)

 

司教叙任権の問題は、皇帝権と教皇権との対立の火種でありつづけたが、1122年、司教杖での司教叙任と王笏での封土授与とを区別するヴォルムス協約によっていちおうの解決をみた。(p.165)