詳説 世界史研究 第3章 東アジア文化圏の形成

『隋の統一』

文帝は政治の刷新を印象づけるため北周長安城の近くに新たに大興城(のちの唐の長安城)を建設して遷都した。そして589年には弱体化していた南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。(p.116)

 

文帝が財政・軍事の基盤としたのは北朝以来の均田制および府兵制である。文帝は均田制を改革し、官位に応じて一定額の土地の世襲を認める官人永業田の制度を立てた。のちに子の煬帝(位604〜618)はさらに改革を加えて役を庸で代納させる制度をつくるとともに、均田制と租調庸制の対象から婦人と奴婢を除いて丁男(成年男性)に一本化した。府兵制も改革し、不要となった地方の軍府を廃止し、府兵と農民の戸籍を同じにした(兵農一致)。また九品中正を廃止して、科目試験によって人材を抜擢する制度(科挙)を始めた。これらは総じて魏晋南北朝時代地方分権的システムを中央集権的なシステムへと転換するものであった。(p.117)

 

さらに場帝は、東都洛陽城の建設を始めるとともに、文帝が始めた運河の建設を推し進め、短期間の間に北は琢郡(北京市付近)から南は余杭(杭州)にまで通じる大運河を完成させた。(p.117)

 

場帝は612年・613年・614年と3度の高句麗遠征の軍を起こしたが、高句麗の頑強な抵抗に遭い、国内の反乱や突厩の離反もあって失敗した。(p.117)

 

『唐の建国と発展』

高祖(李淵)の政治の方針はおおむね隋の文帝の時代に戻ることであって、そうした方針のもとで律令を施行し、三省六部制とよばれる中央官制や均田制を整備した。(p.117)

 

太宗は630年、東突厥の弱体化に乗じてこれを滅ぼすと、西域や北方の君長から「天可汗」の称号を贈られた。(p.118)

 

太宗からつぎの高宗(位649〜683)の時代にかけて唐は空前の大帝国へと発展した。西方では太宗が今日のトルファンにあった高昌国を滅ぼして唐の西州とし、高宗は西突厥を滅亡させてアラル海以西のオアシス諸都市を影響下におさめた。また東方では新羅と協力して高句麗百済を滅ほし、唐の領域は最大の版図に達した。(p.118)

 

唐は辺境の諸民族に対しては、それぞれの民族の首長を都督府や州の長官に任じて間接的に統治する羈縻政策をおこなった。版図の拡大にしたがって800前後の羈縻州がおかれ、これらの州を監督するために六都護府(安西g北庭・安北・単于・安東・安南)が設置された。(p.118)

 

律令体制』

律は刑法、令は行政に関する規定であり、格と式はそれを補うもので、格は補足改正、式は施行細則である。唐代には格と式の整備も進んで律・令・格式と並び称されるようになった。(p.118)

 

中央官庁はおもに三省・六部・九寺・一台から成る。三省は中書省門下省尚書省を指す。中書省詔勅(皇帝が出す命令)を起草することをおもな仕事とし、皇帝の意思を文書化する機関であった。門下省中書省が発する詔勅を審査する役割をはたし、必要な場合は修正して差し戻す権限(封駁)が認められていた。このような門下省の権限には六朝時代の貴族制の影響が認められる。尚書省詔勅を実施する機関であり、吏・戸・礼・兵・刑・工の六部からなっていた。(p.118)

 

九寺(寺は本来役所の意味)は漢代から続く行政機関であるが、唐代には六部のもとで行政の実務を担当する機関となった。例えば、大理寺は検察と裁判を担当し、鴻臚寺は外国使節の接待や葬儀などを担当する。一台とは御史台を指し、官僚の不法行為を監察告発する。以上の官僚機構を統括するものとして幸宰相がおかれた。宰相は当初は門下・中書・尚書の長官各2名の計6名がなり、門下省で会議がおこなわれていた。しかし、のちに会議の場は中書省に移り、尚書省の長官はとくに任命された場合にのみ参加するようになるなど皇帝に近い中書省の地位が高くなっいった。地方行政は隋を継承して州県制を基本とし、全国におよそ350の州と1560の県があった。(p.118)

 

均田制は北魏に始まる土地制度で、国家が土地の所有額を管理することで農民の戸をなるべく一定の規模にそろえようとする政策である。唐では丁男に対し、ロ分田を80畝、永業田を20畝、計100畝(約5.5ha)を給付する規定になっており、永業田は世襲が許された。(p.119)

 

官位や爵位をもつ者は地位に応じて官人永業田を与えられ、在職中の者には職事田も支給されたので、唐代の均田制は身分的な大土地所有制度としての意味ももっていた。(p.119)

 

府兵制は西魏に始まる軍事制度である。それまで地方長官のもとにおかれていた軍府を皇帝や皇太子の警固にあたる都の禁衛組織に分属させて、全国の軍府が中央に直属する仕組みにしたものである。唐ではこの軍府を折衝府といい、全国に600ほどがおかれ、兵力の総数は50万ほどに達したが、その約3分の2は長安や洛陽の周辺におかれた。(p.120)

 

『東アジア文明圏の形成』

突厥は630年に崩壊して唐に服属していたが、682年に羈縻支配から脱し突厥第二可汗国を建てた。自立した突厥(552〜745)は唐と父子の関係を結んだ。8世紀の中頃には突厥にかわってウイグル帝国(744〜840)が興り強勢を誇った。ウイグル帝国は表向きは唐の臣下の立場をとったが、実際には絹馬交易を通じて毎年唐から莫大な利益を得た。都城を建てて定住生活を始め、中国との交易に活躍していたソグド人を介してマニ教を受け入れ信奉した。ウイグルは9世紀前半にキルギスの攻撃を受けて滅びたが、一部は西に移動して甘粛地方や天山地方で王国を建てた。突厥ウイグルはソグド文字から発展させた突厥文字やウイグル文字を生み出し、北アジアの遊牧社会に独自の文字文化を築いた(p.120)

 

吐蕃 (7〜9世紀)は7世紀初めのソンツェン=ガンポ(位629〜649)の時代にチベット高原を統一する王国を築き、7世紀の後半には西域に進出してオアシス地域の覇権を争うまでになった。吐蕃は唐から文成公主や金城公主といった王女を迎えて婚姻関係を結び唐の文化を導入したが、一方でインドからも仏教や文字文化を取り入れるなどして独自のチベット仏教チベット文字を生み出した。(p.120)

 

8世紀の前半には唐と吐蕃の影響を受けながら現在の雲南省の大理・昆明の地域にチベットビルマ系民族の南詔(738〜902)が起こった。10世紀の初めには滅びたが、南詔の繁栄はのちの大理国の建国に繋がった。(p.121)

 

朝鮮では6世紀に新羅が勢力を伸ばしたが、なお高句麗百済と厳しい戦いをおこなっていた。新羅は金春秋を高句麗と日本に派遣して同盟を探ったが、最後に唐との同盟を選んだ。金春秋は即位して武烈王(位654〜661)となり、唐と連合して百済を滅ぼした。唐が高句麗を滅ほしたのちは、朝鮮の支配をめぐって唐と戦争になるが、唐は突厥の再興や吐蕃との戦争に力をそがれて撤退し、新羅朝鮮半島の領有を認めた。以後は唐の冊封体制下で緊密な交流を続け、唐の文化や仏教を導入した。新羅百済高句麗の人々を支配下におさめる過程で王都の金城(慶州)に骨品制とよばれる身分制をつくった。仏教が栄え、都の内外に仏国寺など多くの寺院が建てられた。(p.121)

 

高句麗の故地では大酢栄(位698〜719)が渤海(698〜926)を建国し、唐から冊封を受けた。渤海は唐に倣って三省六部制を導入し、全国に5つの都城(五京)を築いた。なかでも上京竜泉府は日本の平城京と同じく唐の長安城の都城制を導入した都城であった。(p.122)

 

『唐代の社会と文化』

唐代の文化をリードしていたのは貴族であって、唐の文化は貴族文化といえる。(p.122)

 

儒学では孔穎達(574〜648)が「五経正義」を編纂して経典の解釈を定め、科挙の基準にもなった。(p.122)

 

唐代文化のもう1つの特徴は、東西交易の発達によってペルシア系の文化が大量にはいってきたことで、その中心地はシルク=ロードと結ばれた長安であった。(p.122)

 

唐の後半になると、シルク=ロードにかわって海上交易が盛んになり、これと結びついた揚州や広州が栄えた。インドシナ半島チャンパーや真臘(カンボジア)、島峡部のシュリーヴィジャヤ朝やシャイレンドラ朝の朝貢使が来航し、ペルシアやアラビアからムスリム商人が多く訪れるようになった。広州には、皇帝から派遣されて交易を監督する市舶司がおかれ、唐末の外国人居住者は12万にも達した。(p.123)

 

律令体制の転換と唐の動揺』

武后は洛陽を都とし、長安の旧勢力とは距離をおき、科挙出身者を宰相に登用するなどして科挙官僚の進出に道を開いた。(p.124)

 

武后は晩年退位を迫られ、中宗が復位(705〜710)して国号は唐に戻った。しかし、今度は中宗の皇后の韋后が武氏一族と結んで権力を握ろうとして皇室の李氏と対立した(武章の禍)。(p.124)

 

太宗の時代、1230万くらいであった唐の人口は、玄宗の時代にはいると4000万を超えるようになり、治世の終わり頃の755年には5300万近くに達した。こうした急激な社会の変化のなかで、固定的な社会を前提としていた律令体制は十分に機能しなくなった。そこで玄宗の時代にはこうした社会の変化に対応するための新しい施策が打ち出されていった。(p.124)

 

軍事の面でも府兵制が行き詰まり、増大する兵員の需要に応ずるため募兵制がおこなわれるようになぅた。(p.125)

 

軍事の方面では、辺境の軍鎮を管理するために10の節度使がおかれた。このうち長城の外の安西・北庭平盧の3節度使には武官や異民族出身の蕃将が就き、長城以南の7節度使には文官が就く慣例であった。軍鎮の兵士は職業兵であり、軍鎮はまた兵士の居住地でもあったため、節度使には軍事・民政・財政の権限が一手に与えられた。(p.125)

 

安禄山は755年に蜂起して洛陽・長安をおとし、翌年皇帝の位に就いて大燕国を建てた。しかし、安禄山は757年に次男に殺され、その後を仲間の史思明(?〜761)が受け継いだが、史思明も長男に殺された。唐はウイグルの支援を受けてなんとか反乱をおさめることができたが、この間玄宗長安を放棄して蜀(四川)に逃れ、楊貴妃はその途中で殺された。安史の乱(755〜763)は、玄宗の権威を失墜させただけではなく、唐帝国の中央集権支配にも壊滅的な打撃を与え、反乱の前年に約891万4709戸、5291万9309人あった人口は、反乱後には293万3125戸、1692万386人にまで落ち込み、以後5000万人を回復することはなかった。(p.125)

 

安史の乱以後の唐の弱体化は明らかで、羈縻政策は破綻し、オアシス地域からは撤退し、ウイグル吐蕃南詔への対応に苦慮するようになった。内地にも直接の統治がおよばない地域が増え、節度使に軍事・財政・民政の権力を与えて地方の統治を委ねるようになった。これを藩鎮という。(p.126)

 

唐は増大する軍事費を賄うため、定額制の租調庸制を諦め、780年に楊炎の両税法を採用した。両税法とは、まず国が予算を立て、その予算に応じた両税額を州県に戸数に応じて割り当て、州県が各戸にその資産に応じて割り当てて、夏と秋の2回に分けて徴収する税法である。このように人頭税から戸の資産(おもに土地)を対象とする課税に移ったこと、定額制から予算制へと切りかわったことは、個別人身支配を基盤とした秦漢以来の古代帝国のあり方を根本から変えるものとなった。(p.126)

 

租調庸制から両税法への転換は、農民にとってみれば租税負担の増大を意味した。しかも両税法は銭納を原則としたので、農民は銭を入手するために農産物を安く売り払わねばならなかった。唐は両税と並ぶもう1つの重要な財源として塩の専売をおこなったが、原価の10倍にまで利益を上乗せされた塩を購入するにも銭が必要であった。(p.126)

 

塩の密売商人であった黄巣(?〜884)が起こした反乱(黄巣の乱、875〜884)によって洛陽や長安は陥落した。唐は唐側に寝返った黄巣の武将の朱全忠(852〜912)と西突厥の流れを汲む沙陀族の節度使李克用の力によってなんとか平定するが、907年朱全忠によって滅ぼされた。(p.126)

 

『五代の分裂時代』

朱全忠後梁(907〜923)を建てて運河沿いの汴州(開封)を都とした。華北では50年ほどの間に、後梁後唐後晋後漢・後周の5つの王朝が交替した。このうち後唐は李克用の子が建国し、後晋後漢も沙陀族の節度使が建国したものである。この頃には契丹(遼)が大きな勢力をもつようになり、後晋は燕雲十六州と引き換えに遼の支援のもとで建てられた。その他の地域でも10あまりの国が興亡を繰り返した。この時代とくに華南の経済の発展はめざましく、今日の省のまとまりに通じるような地域性のある地方政権が分立した。この時代を五代十国(907〜979)という。(p.126)

 

唐が崩壊して武人政権の時代にはいったことで旧来の貴族は没落していった。一方で、農業の生産力が発達して貴族的な特権に頼らなくてもすむ新興の地主層が成長した。奴婢などの賤民に耕作させる荘園は姿を消し、佃戸とよばれる小作人を雇っておこなう経営が一般化した。(p.126)

 

唐の崩壊は周辺の諸国にも大きな影響を与え、唐の冊封国であった南詔渤海新羅などは10世紀の前半にあいついで滅び、日本でもまた律令体制の時代は終わりを告げた。(p.126)