詳説 世界史研究 第3章 北方民族の活動と中国の分裂

『中華世界の再編』

後漢王朝が衰退する一方で、力を増していったのが各地の豪族勢力であった。彼らは流浪の人々を農奴的な雇われ人である「佃客」や「衣食客」としたり、私的な武装集団の兵士「部曲」として吸収し勢力を伸ばした。こうして力をもった豪族勢力のなかから地域社会のリーダーがあらわれる。(p.109)

 

曹操(155〜220)は後漢献帝を迎え入れると、最大のライバルであった衰紹を破って覇者となり、華北を統一する。しかし、208年に赤壁の戦い孫権劉備の連合軍に敗れ天下を統一することはできなかった。赤壁の勝利によって孫権は長江下流の支配を盤石にし、劉備はさらに長江上流の四川にはいって開発を進めた。曹操後漢の権威を利用するため、自らは魏王にとどまり、皇帝にはならなかったが、220年、曹操が死ぬと子の曹丕(文帝、位220〜226)は後漢献帝(位190〜220)から禅譲を受け、魏王朝(220〜265)を創設した。(p.110)

 

『北方民族の動向』

魏は263年に蜀を滅ぼすが、その2年後には将軍司馬懿の孫である司馬炎武帝、位265〜290)によって国を奪われる。この王朝を晋といい。15年後の280年には呉を滅ぼし中国を再統一した。ところが、それからわずか20年ほどで皇室諸王による八王の乱(290〜306)が起こり、晋は内乱状態となる。(p.110)

 

中国内地の匈奴の勢力をまとめる権限を与えられた匈奴劉淵は、自立して漢王を称した。匈奴の漢は晋と戦い、311年には洛陽に侵攻し(永嘉の乱)、316年には長安に侵攻して晋の皇帝をとらえた。こうして晋はいったん滅亡するが、317年に皇族の司馬睿(元帝、位317〜322)が建康(現在の南京)において晋王朝を再建する。洛陽・長安に都がある晋を西晋(265〜316)といい、建康に都がある晋を東晋(317〜420)という。(p.110)

 

南北朝時代

前秦滅亡後に代を復興した鮮卑の拓跋部の王である珪は、まもなく魏王と改称し、後燕鮮卑)を破ると、398年都を盛楽(内モンゴル自治区ホリンゴル県)から平城(山西省大同市)に移して皇帝に即位した。こうして北魏(386〜534)の初代皇帝となった道武帝は、部族解散をおこない、皇帝が部族民を直接支配するようにした。道武帝の孫の太武帝(位423〜452)は即位すると自ら積極的に遠征をおこない、わずか15年ほどの間に、北には柔然を追い払い、東には北燕(漢族)、西には夏(匈奴)、そして439年には河西回廊を支配する北涼匈奴)を滅ほして華北の敵対勢力を一掃した。(p.111)

 

北魏の文明太后は幼い孝文帝(位499)にかわって摂政し、三長制と均田制を創設して豪族支配下の民衆を戸籍につけて土地を与え、兵役徴発や租税収入の基盤を拡充した。孝文帝は親政を開始すると、朝廷に残る鮮卑の遺制を大胆に中国的に改める漢化政策を断行し、494年には洛陽へ遷都して南伐を繰り返した。(p.111)

 

524年に起こった六鎮の乱は北魏東魏西魏に分裂させ、その余波は548年の侯景の乱となって梁をも崩壊に導いた。6世紀の後半には、東魏 (534 550)を継いだ北斉(550〜577)と西魏 (535〜556)を継いだ北周(556〜581)、そして江南の陳(557〜589)が鼎立する状況となったが、577年には北周北斉を滅ぼした。このときすでに四川や長江以北の地も北朝の領土となっており、陳の支配する地域はごく狭いものとなっていた。581年に隋は北周に取って代わり、その8年後に陳は隋に滅ぼされた。(p.112)

 

『社会経済の変化』

曹操は編戸斉民(人民をみな等しく扱う考え)を理想とした漢帝国の建前を捨て、大胆にのちの時代の先例となる制度をつくった。兵民一致の原則を捨て特定の家が父から子へと世襲的に兵役を担う兵戸制を創設したこと、人頭税を基本とした徴税制度をやめて戸の資産に応じて税を徴収する戸調制へ移行したこと、豪族の荘園に対抗し流民を収容するための特殊な屯田制(典農部屯田)を創設したこと、たとえ徳行がなくても才能がある者に出仕をよびかけた求賢令を発したことなどである。(p.112)

 

西晋は親の屯田制の後を受けて占田・課田法を設けたが、どこまで実施されたかは不明である。(p.112)

 

北魏は三長制と均田制を施行して豪族支配下の民を国の戸籍につけることに成功し、以後の北朝の諸王朝に継承された。また東晋以降、州一郡一県の民政系統とは別に、都督府とよばれる軍政系統の地方行政制度が広まっていった。(p.112)

 

後漢末、曹丕は各地の優れた人材を登用するため、九品中正の制度を始めた。それまで秩石(俸禄の石高)によってあらわされていた官僚のランクは、これ以降基本的に九品から一品までの九等に分けられることになった。各郡には地元出身者から選ばれた中正官がおかれ、人物の推挙をおこなう。その際に中正は将来性をはかって九品にランクづけする。人事を司る吏部はこれを参考にして、例えば、三品に昇進する将来性を見込まれた人物であれば初任官を七品の官につけてスタートさせるのである。この九品中正の制度は、当初は各地方の才能や徳行のある人物を推薦させる制度として始まったが、魏の後期には司馬懿によって州に大中正がおかれて、中央の高官の意向が反映されやすくなった。このため個人の才能や徳行よりも家柄が重視されるようになり、何世代にもわたって高官を輩出する貴族 (門閥貴族) とよばれる同族集団を生み出すシステムへと変貌していった。(p.112)

 

魏晋南北朝の文化』

老荘思想道家思想)や「易経」に基づいて真理の探究をおこなう玄学が起こり、そうした価値観に基づきながら芸術談義や人物評価をおこなう清談が流行した。(p.113)

 

仏教はすでに前漢末から後漢前半には中国に伝わっていたようであり、後漢時代には仏典の翻訳が始まった。(p.113)

 

仏教伝来のもっとも大きなルートは、インドから中央アジアを通って華北にはいってくるルートであり、4〜5世紀の遊牧民族が多く暮す華北社会において仏教は社会に広く浸透した。このルートで仏教を伝えた人物としては、クチャ(亀益)から洛陽にはいって後趙に仕え中国仏教の基礎を開いた仏図澄(?〜348)や、長安にはいり前奏・後涼後秦に仕え仏典の翻訳をした鳩摩羅什(クマラジーヴァ、344〜413)が有名である。(p.114)

 

もう1つは、チベットをへてはいる陸のルートや、東南アジアや中国の南の海岸沿いにはいる海のルートであり、東晋の僧法顕(337頃〜422頃)は行きは陸路を使い、帰りは海路を使ってグプタ朝のチャンドラグプタ2世を訪ね、その旅行記を『仏国記 』に著した。(p.114)

 

外来の宗教である仏教の浸透に対しては、廃仏とよばれる過激な排斥運動も起こった。北魏の第3代皇帝太武帝漢人貴族の崔浩の勧めに応じて冠謙之(365頃〜448)の新天師道を取り入れて道教を国教とし、中国史上最初の大規模な仏教弾圧をおこなった。しかし太武帝の死後仏教は復活し、都の平城の近くに雲岡石窟がつくられた。孝文帝の洛陽遷都後には洛陽の近くに竜門石窟がつくられた。竜門石窟は唐代に入って則天武后武則天)の支援も受けてきらに大きな発展を遂げた。また、南朝では貴族や僧侶を中心に仏教の哲理の探究や中国文化との比較がおこなわれた。ついに梁の武帝は仏教を崇敬して3度の捨身をおこなうなど、王侯貴族を中心とした仏教文化が花開いた。(p.114)

 

中国の民間信仰である道教も仏教の影響を受けて発展した。神仙思想ともかかわりのある道教はもともと決まった教祖や教説をもたない宗教であったが、老子が教祖とされ、仏教の影響を受けつつ道教教典や道像(仏教の影響を受けた道教の神像)がつくられ始める。北魏寇謙之や梁の陶弘景によって道教経典の整理と体系化もおこなわれ、道教は仏教に並ぶ宗教としての体裁を整えた。(p.115)

 

『朝鮮と日本の国家形成』

前1世紀頃には鴨緑江中流高句麗(前1世紀頃〜668)が勢力を拡大し、後漢王朝から王の称号を認められるまでになった。3世紀には魏の攻撃を受けるものの、のちに勢力を回復し313年には楽浪郡を滅ぼした高句麗はさらに中国の遼東地域への進出をはかり、華北の五胡政権と争うが、のちに服属して冊封を受け、前秦から仏教を導入するなどした。(p.115)

 

一方、『三国志 』の「親書」東夷伝の記事によれば、朝鮮の南部には馬韓50余国と辰韓弁韓それぞれ12国が分立していた。しかし、4世紀には馬韓の小国から発展した百済(4世紀半ば〜660)と辰韓の小国から発展した新羅(4世紀半ば〜935)が勢力を拡大し、6世紀には新羅が日本とのかかわりが深い加耶加羅)諸国を併合し、高句麗百済新羅で三つ巴の争いを展開する三国時代にはいった。(p.115)

 

高句麗は4世紀末から5世紀初めの広開土王(好太王、位391 412)の時代に領土を拡大し、百済新羅を圧迫した。(p.116)

 

古代の東アジアの国際関係は朝貢冊封の関係で成り立っていた。朝貢とは中国の皇帝に貢物を献じて関係を結ぶことである。中国の皇帝はこれに対して国賜とよばれる返礼をおこなう。朝貢の目的は多様であり、たんなる交易や交流の関係であることもある。両者の政治的な思惑が一致した場合には冊封がおこなわれる。冊封とは中国の皇帝から王なとの爵位や官職が与えられ、特定の地域の世襲による支配が認められ、ときには直接的に援助されることである。そのかわり冊封を受けた国は、中国の天下にはいり、皇帝を尊重し、中国の年号や法律を用いるのが原則であった。このような国際関係を冊封体制とよぶ。(p.116)