詳説 世界史研究 第3章 草原の遊牧民とオアシスの定住民

『スキタイと匈奴

匈奴単于とよばれる統率者のもとで強力な遊牧国家をつくり、とくに前3世紀末に即位した冒頓単于(位前209〜前174)は、西では中継交易で利益をあげていたイラン系月氏を攻撃して中央アジアのオアシス地帯を勢力下におさめ、東では成立後まもない漢を圧迫した。(p.106)

 

武帝匈奴撃退の積極策に転じた。前139年にはるか中央アジアに移動していた大月氏のもとに張塞  張騫を派遣し、匈奴を東西から挟み撃ちにしようとしたのはその一例である。この試みは大月氏の拒絶に遭って成功しなかったが、武帝は対匈奴遠征を繰り返して河西地方を奪い、西域とよばれた中央アジアのオアシス地帯にも遠征軍を送ってこれを制圧した。いまのウズベキスタン東部のフェルガナ地方にあった大宛国が漢の支配下にはいったのも、このときのことである。このような武帝の積極策は、これまでをオアシス諸国から貢納を求め、交易活動からも利益を得ていた匈奴の力をそぐことになった。(p.106)

 

4世紀になると、内陸アジアの草原地帯の東西で遊牧騎馬民の活動が活発化した。ユーラシア東部では、鮮卑匈奴、氐、羌、羯の「五胡」が晋の支配に反抗し、匈奴は首都洛陽を奪って晋を滅亡させるにいたった。その後、華北ではこれらの遊牧騎馬民の政権が興亡して、いわゆる五胡十六国の時代が到来する。この混乱期をへて華北を統一したのが北魏であるが、これを建てた鮮卑の拓跋氏は、「可寒」という君主号を用いていた。この君主号カガン(可汗)は、のちの柔然突厥ウイグルなどの遊牧国家の君主号に受け継がれ、やがてカアン、カンあるいはハンとかたちを変えることになった。(p.106)

 

ユーラシア西部では4世紀の後半に東方からあらわれたフン人が、黒海北岸のドン川を越えて西に移動する動きが顕著となった。彼らは、ゲルマン諸部族を西へ押し出す役割をはたしたのみならず、その王アッティラは、5世紀前半、いまのハンガリーにあたる地域に大帝国を建て、西ローマ帝国とゲルマン諸部族の連合軍と戦ったことで知られている。(p.107)

 

『オアシス民の社会と経済』

オアシスは、周辺の遊牧民からの攻撃を防ぐための防御施設を備え、市場や寺院、城塞などをもつ都市部と、灌漑による集約的な農業が営まれる周辺の農村部とからなる独立した生活・経済圏であり、手工業生産や隊商交易の拠点としても重要であった。内陸アジアのオアシス都市に交易が発達したのは、その地理的な位置のほかに、農耕地の拡大には限界があり、人口の増大とともに農業以外にも収入源を求める必要があったからだと考えられる。これらのオアシス都市は、ラクダに荷を乗せた隊商がユーラシアの東西を結んで往来する「オアシスの道」(「シルク=ロード」)をかたちづくっていた。7世紀頃の隊商は、中国からは絹・絹織物・漆器・銅鏡などを運び、一方中国には金銀・香辛料(麝香・胡椒)・宝飾品・奴隷などをもたらしていた。(p.108)

 

前2世紀後半には前漢武帝匈奴をおさえるために西域を征服し、その支配はフェルガナ地方にもおよんだ。2世紀半ばのクシャーナ朝の時代、ソグディアナでは西北インドとの交易が発展するとともに仏教(大乗仏教)が広まった。6世紀後半からは巨大な遊牧国家突厥の勢力圏にはいり、7世紀には唐の西域経営が始まった。サマルカンドに残るソグド人の宮殿壁画には唐や突厥の人物像も描かれている。オアシス都市の人的・物的な資源や東西交易の利益は、北部の草原地帯に生まれた遊牧国家にとっても重要であり、匈奴以来の遊牧国家は、とりわけ西域のオアシス都市の支配をめぐって中国の王朝と争った。(p.108)

 

オアシス民が生み出す穀物や織物・手工業製品は、遊牧民のもたらす家畜や皮製品・乳製品と日常的に交換され、遊牧民の政権は隊商路の安全を保証するかわりに隊商から税収を得ることができたからである。このように遊牧民とオアシスの定住民との関係は、緊張をはらみつつも互恵的であり、それは内陸アジア史の展開にも重要な役割をはたした。その意味で、遊牧民と定住民とは内陸アジア史上に並び立つ主人公といってもよいだろう。(p.109)