詳説 世界史研究 第1章 ローマ世界

エトルリアとローマ』

ローマ人は、エトルリア人をとおしてギリシア文化の影響を受け、初めエトルリア人の王に支配されていた。しかし前509年、専制的なエトルリア人の王を追放してローマは共和制となった。(p.51)

 

『ローマ共和政の成立』

前367年にはリキニウス・セクスティウス法により、貴族など有力者による公有地の占有が制限されるとともに、コンスルのうち1人は平民から選ばれるようになった。これによってほとんどの公職が平民にも解放され、富裕な平民がコンスル職に進出するようになった。そして前287年にはホルテンシウス法により、それまで正式な民会と認められていなかった平民会の決議が、元老院の認可なしに全ローマ人の国法となることが公に定められた。ここに平民と家族との政治上の権利は同等となり、身分闘争はいちおうの終わりを告げた。(p.52)

 

こうして平民にも参政権が与えられると、一部の富裕な平民が公職者に加わって元老院にはいるようになり、彼らは旧来の貴族とともに新貴族(ノビレス)とよばれる新しい支配階層をつくるようになった。新貴族は政権を独占し、彼らが議席を占める元老院が実質的に指導権をもちつづける貴族寡頭制的な政体は変わらなかった。(p.52)

 

『ローマ社会の変容』

イタリア半島ハンニバルの侵入で荒らされ、また武器自弁の中小農民が兵士として長期の征服戦争に出征している間に、農地はさらに荒廃して農業が成り立たなくなった。そのため農民たちは没落して農地を手放し、その多くは都市ローマに流入して無産市民となった。彼らは市民権を失っていなかったので、属州から大量に輸入される安い穀物で生活するなどローマ市民に与えられる恩恵を受けたため、いっそうの征服戦争を望んだ。(p.53)

 

平民のうちで富裕な者には、騎士身分(エクィテス)が与えられた。彼らは元老院議員が禁じられている海外貿易などの商業活動に従事し、また属州で徴税請負人として属州民から収奪するなどして、やはり莫大な財産を築き、第2の支配階層を形成した。ローマの支配階層である元老院議員や騎士身分は、イタリア半島で農民が手放した土地を買い集めたり、征服された領土でローマのものとなった公有地を占有するなどして大土地所有者となり、そこで戦争捕虜である奴隷を多数働かせて商品作物を栽培させた。このような多くの奴隷を用いて大規模な農業経営をおこなう大土地所有制を、ラティフンディアという。(p.53)

 

貧民と富裕者双方に望まれた征服戦争はますます拡大し、それとともに市民の間の経済的格差もさらに広がった。その結果、市民の平等を原則としたローマの都市国家としての性格は、前2世紀後半から大きく変質し始め、共和政の骨格は揺らぎだした。また軍事的にも、市民のなかで中小農民が没落すると、彼らが中核を占めていたローマの軍隊が成り立たなくなっていった。貧富の対立が激化すると、政治家は、元老院の伝統的支配を守ろうとする閥族派と、無産市民や騎士の支持を受け民会を勢力の拠り所とする平民派に分かれて争った。(p.54)

 

『内乱の1世紀』

ティベリウスクラッススは、ローマ市民軍を再建するため、公有地の占有面積を制限する土地法を可決させ、一定以上の公有地を所有する者から土地を返還させて無産市民に分配しようとした。(p.54)

 

グラックス兄弟の改革後、有力政治家同士が暴力を用いて闘争し流血を繰り返す時代が100年ほど続くことになる。これを「内乱の1世紀」とよぶ。(p.54)

 

前111年、北アフリカヌミディア王ユグルタとの戦いと(ユグルタ戦争)が始まると、戦争を指揮した平民派の政治家マリウスは、慢性的な兵力不足を解決するため、伝統的な市民軍の原則を破り、無産市民を職業軍人として軍団に雇い入れるという軍制改革をおこない、勝利を得た。ここから軍隊は有力者である将軍が庇護民である無産市民を集めてつくる私兵となり、兵士は将軍を政治的に支持し、他方将軍は兵士に土地を与えて退役後の生活を保証するという保護・庇護関係が軍隊の編制原理となった。閥族派のスラも同じように私兵を率いてマリウスに対抗し、互いに私兵を使って相手の党派を殺し合った。(p.55)

 

ローマ帝国

前30年、ローマに凱旋したオクタウィアヌスは、権力の頂点に立った。彼は軍隊を解散し、一時的に与えられていた大権を国家に返上しようとしたが、かえって元老院から最高軍司令官(インペラトル)の称号を得た。そして前27年、彼は元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を授けられた。ここから帝政時代が始まる。ただし共和政の政体はその後も存続しており、アウグストゥスが「皇帝」という位に就いたわけではない。彼はカエサルと違って元老院など共和政の制度を尊重し、制度上の地位は元老院議員の筆頭であったため、市民のなかの第一人者(プリンケプス)すなわち元首と自称した。だが実際には、アウグストゥスはさまざまな権限を自身に集中させて、政治を思いどおりに動かした。彼は属州統治の権限を委ねられるとともに、護民官コンスルなどほとんどすべての要職を兼任し、全政治権力を手中におさめていた。(p.57)

 

帝国の支配によって平和がもたらされると、商業活動も繁栄し、属州経済が盛んとなって各地の産物が地中海をへてイタリア半島にもたらされるようになった。辺境各地にはローマ軍団が駐屯し、彼ら兵士には政府が貨幣で給料を支払ったため、貨幣の流通が活発化した。その結果、属州経済はイタリアをしのぐようになり、例えばガリアでは赤色陶器が、北アフリカではオリーヴや小麦が、ヒスパニア(スペイン)ではワインが生産・輸出された。

 

帝国外との遠隔地交易も盛んになった。隊商貿易や季節風貿易によって中国・東南アジア・インド・アラビアから、貴金属・絹や香辛料が地中海世界にもたらされた。(p.59)

 

商業活動によって都市は繁栄し、神殿や広場、劇場や公衆浴場を備えたそれらの都市では、ギリシア・ローマ風の都市文化が浸透した。そのなかにはロンドン・パリ・ウィーンなど、のちに近代都市となったものも多い。(p.59)

 

『3世紀の危機』

都市の上層市民のなかには、衰退した都市を去って田園に大所領を経営する者があらわれた。しかし征服の終結にともない奴隷が海外からもたらされなくなると、大規模奴隷制経営によるラティフンディアは採算が合わなくなり、すでに立ちゆかなくなっていた。そこで大土地所有者は、貧困化して都市から逃げ出した下層市民などを小作人(コロヌス)として大所領で働かせた。コロヌスは奴隷ではないが、土地に縛りつけられ、土地とともに売買されたり相続されたりする世襲身分の隷属農民である。こうした生産体制を小作制(コロナトゥス)とよび、ラティフンディアに取って代わっていった。(p.60)

 

専制君主政』

324年にローマ全土を統一し、単独帝として安定した支配を打ち立てたのはつぎのコンスタンティヌス帝である。彼はディオクレティアヌスの改革を解消し、皇帝の専制支配をいっそう推し進め、機動的な軍隊を増強して帝国支配を安定させようとした。また統治の宗教的支柱としては、伝統宗教ではなくキリスト教を選び、それまで迫害されていたキリスト教を公認することで帝国の統一をはかった。さらに財政基盤を整備するため法律によってコロヌスを土地に縛り付けて税収入を確保し、下層民の身分や職業を世襲化した。コンスタンティヌス伝統宗教の残るローマを去り、330年に新たな首都を東西の交通の要衝ビザンティウムに建設して、これをコンスタンティノープルと改称した。これにより帝国の重心は経済的にも軍事的にも東方に移動した。また、通貨問題では、国際的に信用の高いソリドゥス金貨を発行し、貨幣経済を安定させることに成功した。コンスタンティヌスの帝国再編の結果、官吏の力は強大となり、皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制が確固たるものとなった。ローマは官僚制を土台とした階層社会となり、人々は官吏としての出世を望むようになった。国民は互いに対等な市民ではなく、皇帝に仕える臣民となり、ポリス以来の市民の自由はこうして完全に失われた。(p.60)

 

西ローマ帝国の滅亡』

すでにコンスタンティノープルの新都建設以来、帝国の重心は東方ギリシア世界に移動し、西方ラテン世界との分離傾向は強まっていた。395年、テオドシウス帝は、死にさいして帝国を東西に分割し、アルカディウスとホノリウスの2子に分け与えた。これ以後東西の帝国が再び統一されることはなかった。(p.61)

 

476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって幼い西ローマ皇帝ロムルスは退位させられ、ここに西ローマ帝国は滅亡した。(p.61)

 

『ローマの生活と文化』

ローマ帝国の文化的意義は、その支配をとおして地中海世界のすみずみにギリシア・ローマの古典文化を広めたことにある。(p.64)