詳説 世界史研究 総括

最後に、各章の前置きをまとめました。世界史全体の大まかな流れを俯瞰できると思います。また、このような大局的な視点が東大世界史第一問で問われていることは書くまでもないでしょう。

 

第1章『オリエントと地中海世界

メソポタミアとエジプトに生まれたオリエント文明では、大河の灌漑・治水を指導するため、多神教最高神の権威を背景とした神権政治が早くからおこなわれた。エジプトの太陽暦メソポタミアの六十進法、フェニキアのアルファベット、法律や政治を実行する官僚組織など、オリエント文明が周辺諸地域におよぼした影響は大きい。メソポタミアでは都市国家が統合されて古代国家に成長し、周辺諸民族の侵入と興亡を繰り返しながら、アッシリアやアケメネス朝といった古代帝国の出現をみる。他方エジプトは神の1人である王(ファラオ)を中心に巨大な官僚組織を用い、長期にわたって安定した支配体制を続けた。

オリエント文明の影響を受けてエーゲ海周辺に生まれたエーゲ文明では、王権によって支配される小王国が分立した。それらの小王国では、宮殿を中心に物資を集中的に管理する複雑な仕組みが発達したが、前1200年頃に崩壊した。エーゲ文明崩壊後に生まれたギリシア文明は、ポリスとよばれる独自の都市国家がその社会的基礎であった。ポリスは強大な王権をもたず、対等な市民たちの共同体であることが特徴で、自由な議論を尊重するその気風は、合理的で人間中心の精神文化を生み出した。小国分立が長く続いたギリシア世界を政治的に制圧したマケドニアアレクサンドロス大王は、東地中海とオリエント全域にわたる帝国を築き、その各地にギリシア文化を波及させた。

イタリア半島の一都市国家であったローマは、強大な軍事力によって地中海世界を政治的に統一し、「ローマの平和」とよばれる繁栄をもたらした。ローマ文明はギリシア文化の継承発展のうえに築かれたが、同時に統治の技術である土木建築やローマ法を独自に発達させ、その後のヨーロッパ世界の直接の母体となった。他方、パレスチナの地に生まれたキリスト教は、初め皇帝を神の1人として崇拝するローマ帝国に迫害されたが、地中海周辺の各地に急速に広がり、やがて公認されてローマ帝国の国教となるにおよんだ。キリスト教ギリシア文化とともに、その後のヨーロッパ思想の重要な源流となった。(p.15)

 

第2章『アジア・アメリカの古代文明

インド亜大陸ではインダス文明という都市文明が生まれ、ついでアーリア人が進入してカーストの原形ができるとともにバラモン教が生まれた。都市国家の発展を背景に仏教やジャイナ教があらわれ、バラモン教も革新を遂げた。紀元前3世紀にはマウリヤ朝アショーカ王インド亜大陸全域を支配した。新しい仏教として大乗仏教が登場し、紀元後2世紀にはクシャーナ朝カニシカ王の庇護を受けて拡大した。4世紀に興ったグプタ朝のもとでインドの古典文化は黄金期を迎えるが、商業活動の衰退とともに6世紀半ばには衰亡し、小国分立の時代にはいる。

紀元前後より中国やインドとの交流が盛んになった東南アジアでは、扶南やチャンパーなどの国があらわれたが、やがてインドのヒンドゥー教や仏教の影響を強く受けるようになった。東西貿易の活性化にともないカンボジアビルマ、タイに王国があらわれ、島嶼部に港市国家が誕生した。北部ベトナムは10世紀に中国から自立し、独自の王朝を築いた。

東アジアでは新石器時代の都市のなかから殷・周があらわれて黄河文明が生まれた。春秋戦国時代には文化的なまとまりを拡大し、諸子百家とよばれる思想を生んだ。前221年には始皇帝が中国を統一して皇帝による支配が始まった。秦はわずか15年で減んだが、漢は前漢後漢をあわせておよそ400年におよぶ大帝国を築いた。紀元前2世紀には武帝が領土を拡大して東西交易を活発にした。儒教の教えが広まり、国教としての地位を確立していった。漢文化の刺激を受けて周辺の地域でも国づくりが始まった。2世紀には中国の周辺や内地にいる諸民族の動きが活発になり、しだいに漢は衰えていった。

アメリカ大陸はトウモロコシやジャガイモやトウガラシなど今日世界で栽培されている数多くの作物の原産地であった。メソアメリカ文明からは発達した文字文化をもつマヤ文明があらわれた。一方、アンデス文明は文字をもたなかったが都市文明を発展させ、15世紀にはインカが大帝国を築いた。(p.68)

 

第3章『内陸アジア世界・東アジア世界の形成』

北アジアの草原は降水量に乏しく農耕や定住には適さないが、遊牧民は広く移動しながら家畜に草を食べさせることで、乳や肉、毛や皮を得ることができるようになった。最初にあらわれた遊牧国家はスキタイで、ついで中国に秦の始皇帝があらわれたのと同じ頃、モンゴル高原に冒頓単手があらわれて匈奴を強国にした。匈奴前漢武帝の攻撃を受けて衰退していくが、中国の内地にはいっていった五胡とよばれる諸民族が自立し、遊牧文化と農耕文化が融合した文化をつくり上げていく。一方、モンゴル高原では柔然が登場した。騎馬遊牧民の活動はヨーロッパにもおよびフン族が西進した。6世紀にあらわれた突厥パミール高原をまたいだ中央ユーラシアの大帝国を築いた。

中国では漢帝国が崩壊し、江南や四川にも中国文化の中心地があらわれた。西晋は一時的に中国を統一したが内乱によって衰退した。華北では五胡十六国が分立し、華南には東晋王朝が建てられた。東晋が減んで宋に変わり、華北では北魏が統一を成し遂げて、南北朝時代が始まった。道教が成立して広まり、仏教が社会に浸透した。中国の分裂は朝貢冊封による国際関係を活発にして、卑弥呼倭の五王が中国の冊封を受けた。

隋は中国を再統一すると、大運河を築いて南朝の時代に発展した江南の豊かな物資を華北に輸送できるようにした。唐は前漢に並ぶ大帝国を築き、東西交易を活発にして、陸路だけではなく海路による交易の発展も促した。また、律令を整え均田制や官僚制を整備した。社会には浄土教禅宗といった仏教の新しい宗派が広まった。これらは朝鮮半島や日本にも波及し、東アジア世界規模での古典文明が生まれた。しかし、755年に始まる安史の乱を境として唐の中央集権体制は後退し、それぞれの地域を節度使が統治する藩鎮体制に移行していく。唐の滅亡は南詔新羅渤海といった冊封国にも波及し、東アジア世界全体の再編を促すことになった。(p.103)

 

第4章『イスラーム世界の形成と発展』

本章では、7世紀初めのイスラーム教の誕生から15世紀頃にいたるイスラーム世界の形成と発展、そしてそこに成立したイスラーム文明について概観する。

唯一神アッラーの啓示を受けたとされる預言者ムハンマドの教えは、アラビア半島のアラブの間に広がり、彼らの大征服によって、西はイベリア半島から東は中央アジアにおよぶ広大なイスラーム世界が形成された。バグダードを首都としたアッバース朝は、「イスラーム帝国」として知られる。イスラーム教という新しい一神教の普及は、各地の社会と文化を大きく変えるものであった。

イスラーム帝国はしだいに分裂したが、11世紀からは中央アジアから西アジアに進入したセルジューク朝のように、トルコ人が政権を握るようになった。この時代には、軍人に土地からの徴税権を与えるかわりに軍事奉仕の義務を課すイクター制度が普及し、のちの諸王朝に継承された。トルコ系の奴隷軍人(マムルーク)は、エジプトにマムルーク朝を建てたばかりではなく、西北インドイスラーム化においても大きな役割をはたした。

広域のイスラーム世界が成立すると、陸上の交易ルートはもとより、地中海・紅海・インド洋を結ぶ海上の交易ルート「海の道」も活況を呈するようになり、こうした動きは東南アジアやアフリカのイスラーム化を促進することになった。マムルーク朝期には、東南アジア・インド産の香辛料をイタリア商人と取引きしたカーリミー商人が知られている。

イスラーム文明は、古代オリエント文明やヘレニズム文明など西アジア古来の諸文明とイスラーム教とが結びついて生まれた融合文明であった。それは普遍的なイスラーム教に基づいた統一性をもつと同時に、さまざまな集団や地域の文化的な伝統に由来する多様性を備えていた。この文明は、中世ヨーロッパで多数のアラビア語学術文献がラテン語に翻訳されて12世紀ルネサンスが開花したように、ヨーロッパ文明の形成に寄与したことも重要である。(p.129)

 

第5章『ヨーロッパ世界の形成と発展』

古代末期の世界秩序の再編のなかで、ローマ帝国は東西に分裂し、キリスト教は地中海最大の宗教にのし上がり、西ローマ帝国は減亡した。「ローマ後(ポスト=ローマ)」の時代は、すでに長らく帝国の一翼を担ってきたゲルマン人の大移動によって幕を開けた。ローマ帝国として存続した東ローマ(ビザンツ)帝国がユスティニアヌス帝のもとで勢力を挽回するなか、教皇グレゴリウス1世以降、ローマ=カトリック世界を束ねつつあった教皇座は、西ヨーロッパを統合したカール大帝フランク王国と提携する道を選んだ。

1000年頃までに、カロリング朝の後継国家群からキリスト教君主国ドイツ、フランス、イングランド(イギリス)が誕生し、また北欧と東欧とがキリスト教世界に加わった。ローマ=カトリックを信奉するラテン=キリスト教世界(西ヨーロッパ)とビザンツ帝国ギリシア正教世界(東ヨーロッパ)は袂を分かち、前者が改革を通じて教皇の権威を確立していくのに対し、後者はセルジューク朝の台頭を前に西方からの援軍を乞う事態となった。

12世紀以降、商業の復活、都市の増殖、開墾運動によって国力を高めた西ヨーロッパ勢力は、イベリア半島や聖地でイスラーム教徒に対する十字軍を展開し、シリア・パレスチナに国家を建国し、一時はビザンツ帝国をも支配下におさめた。教皇が主導権を強化する一方、イングランドやフランスといった君主国が成熟をとげた。

しかし14世紀にはいると、さまざまな危機が表面化する。教皇座の権威は失墜し、君主国では議会や諸身分が王権を統制し始めた。農業が停滞し、疫病が流行するなか、農民や職人が反乱を起こし、異端運動が社会の混乱を招いた。東方では、ビザンツ帝国が東の防波堤としての機能を失い、オスマン帝国の支配が迫った。一方で、ジェノヴァなどのイタリア都市国家レコンキスタを完了したポルトガル・スペインが大西洋に進出し、ヨーロッパの第2の膨張期、大航海時代が幕を開ける。(p.151)

 

第6章『内陸アジア世界・東アジア世界の展開』

第3章でみたように、漢の減亡後の中国では、王朝並立の状況のなかで漢人と北方民族との交流・融合が促進され、6世紀末以降、隋・唐王朝による新たな統合が実現された。唐の文化は国際的といわれるが、その背景には、北朝以来の東アジア・内陸アジアの融合の動きがあったのである。朝鮮や日本などの周辺地域でも、唐の制度や文化を積極的に導入して国家形成が進められた。その後、10世紀初めに唐が滅亡すると、内陸アジア・東アジアの状況は大きく変化する。五代の分裂期をへて、宋・遼・西夏・金といった王朝の並立する状況からモンゴル帝国の成立にいたる、もう1つの「分裂→統一」のサイクルが始まるのである。本章で扱うのは、10〜14世紀にいたるこのサイクルの時期である。

宋(北宋)は、中国史の文脈では普通、統一王朝と考えられているが、北方民族も含んだ。より大きな統合を基準に考えてみると、唐の盛期の広域的な統一が崩れて、漢人居住地域を支配する宋と、北方の遼や西北の西夏が分立する形勢となっていることがわかる。宋代の文化は唐代とは異なって、北方・西方の影響を排した漢文化の独自性が色濃くでているが、これは、北方の遼や金、西夏などで独自の文字をつくり、漢文化と異なる特徴を打ち出そうとしたのと表裏をなす動きといえる。大局的にみれば、北朝から隋・唐にかけての「胡・漢融合」の方向が転換して、それぞれの文化的特徴が顕在化するようになったのである。そうした周辺地域の自立化の動きは内陸アジアにとどまらず、ベトナムの独立や、日本における律令制の解体、国風文化の成立など、東アジア周辺部の諸地域でもみられた。

その後、モンゴルがユーラシア北部・中部の草原・砂漠地帯に加えて東部の農耕地帯を征服して大帝国を築くと、これらの地域は政治的に統合され、経済的・文化的交流も活発化する。しかし、モンゴルの大帝国は14世紀には、自然災害などの影響もあって解体に向かうこととなる。(p.193)

 

第7章『アジア諸地域の繁栄』

本章では、14世紀後半から18世紀までのアジア諸地域の動向を扱う。第Ⅲ部全体では、16〜19世紀の時期を扱うこととしているが、東アジアや中央アジア西アジアでは、モンゴル帝国解体後の状況から述べたほうがわかりやすいと思われるため、本章では、明朝やティムール朝の成立する14世紀後半を始点とした。

モンゴル帝国の崩壊後、アジア諸地域には、大きな領土をもつ新たな国家が成長した。東アジアでは、漢人王朝である明朝が成立し、モンゴルを北方に駆逐した。明朝の領土はほぼ農耕地帯に限られていたが、明朝は周辺地域と朝貢関係を結んで東アジアの国際秩序を再建した。17世紀には満州人の清朝が中国本土を征服し、その後、モンゴル・チベット東トルキスタンを含む大帝国を築いた。中央アジア西アジアでは、チャガタイ=ハン国、イル=ハン国にかわってティムール朝が支配を広げ、イラン人の世界とトルコ人の世界がいったん統一された。ティムール朝の衰退以後は、アナトリア半島から西アジア北アフリカ・ヨーロッパに領土を広げたオスマン帝国と、イランのサファヴィー朝とが、対抗しつつ全盛期を迎えた。南アジアではイスラーム教徒のムガル帝国が支配を広げ、インド=イスラーム文化が栄えた。

16世紀以後ヨーロッパ人がアジアに進出すると、東南アジアの一部の地域はヨーロッパ人によって植民地化されたが、多くの場合、ヨーロッパ商人はアジア商人に混じって現地政権の管理のもとで貿易に従事し、国際商業のもたらす富は、アジアの諸帝国の経済と文化の繁栄を支えた。(p.221)

 

第8章『近世ヨーロッパ世界の形成』

15世紀後半、ヨーロッパは近世(あるいは初期近代)とよばれる時代にはいった。そこでは、政治・経済・社会・宗教・文化など歴史のあらゆる側面で、近現代の世界に直接繋がる新しい動きがめだつようになった。近世は18世紀後半まで、ほぼ3世紀続くことになるが、17世紀半ばには全ヨーロッパ的規模の危機(全般的危機)が生じた。

15〜17世紀にかけての時期は大航海時代ともよばれ、ヨーロッパの国々は、ポルトガル・スペインを先頭に、ヨーロッパ外の世界への進出を開始した。アフリカの南端をまわってアジアにいたる航路を開拓し、豊かなアジア世界に拠点を確保する一方、大西洋を西に向かい、「新大陸アメリカ」に到達して、植民地化した。その結果得られた新たな富の流入で、ヨーロッパ世界も変化した。こうして、世界の一体化が本格的に始まった。

同じ時期、思想・芸術・科学などの文化の面では、人間性の自由・解放を求め、各人の個性を尊重しようとするルネサンスが起こった。また、16世紀には、カトリック教会を批判する動きがヨーロッパ各地に広まり、プロテスタント諸宗派が成立した。この宗教改革に対して、カトリック教会も内部革新に取り組んだ。その結果、人々の信仰が内面化され、各国の教会はそれぞれ個性を強め、世俗の政治・社会秩序も大きな影響を受けた。

こうしたできごとを背景に、ヨーロッパの国々は、多くは絶対王政というかたちをとって、従来より強固なまとまりをもつようになった。各国は、独立した主権国家として互いに対立と妥協を繰り返しながら、一つの国際秩序(主権国家体制)を形成していった。16世紀にはスペインが優勢であったが、17世紀にはいる頃には、オランダ・イギリス・フランスなどの国が、それに対抗する有力国として姿をあらわしていた。17世紀半ばには、三十年戦争に陥ったドイツをはじめとして、多くの国が危機を迎えた。(p.249)

 

第9章『近世ヨーロッパ世界の展開』

17世紀半ばの危機を乗り越えたヨーロッパの国々は、自国の富の増大をめざして重商主義政策をとり、ヨーロッパでの勢力の拡大と海外植民地の獲得をめぐって、ヨーロッパの内外で争いを繰り返した。そして、18世紀のヨーロッパは、より緊密化した海外との繋がりを背景に、再び成長期を迎えた。

17世紀後半から18世紀には、スペイン継承戦争七年戦争など規模の大きな戦争が頻発した。当時有カであったのは、イギリス革命・名誉革命で立憲王政を確立したイギリス、ルイ14世のもとで絶対王政の極盛期を迎えたフランス、さらに、オーストリアプロイセン・ロシアなどであった。改革の担い手となるべき市民層の成長が十分ではなかった東ヨーロッパの国々では、上から君主主導の改革を進める啓蒙専制君主が出現した。

この時期には、ヨーロッパ各国のアジア進出で領土支配が重視されるようになったが、イギリスはフランスに勝ってインドで勢力を確立した。また、ラテンアメリカの大半はスペイン領であったが、北アメリカ大陸にはイギリスの13植民地が成立した。また、多くの国が西インド諸島に植民地を確保した。アメリカ・ヨーロッパ・アフリカを繋ぐ三角貿易が栄え、世界は巨大な分業システム(近代世界システム)で密接に結びつけられた。

17世紀のヨーロッパでは自然界の研究が進み(科学革命)、真理を探究する精神は人間社会にも適用された。18世紀にかけて、合理的な知を重んじる啓蒙思想がフランスなどで有カとなり、現実の政治や社会にも大きな影響を与えることになった。当時の文化、とくに芸術は王侯の宮廷生活との結びつきが強く、バロック芸術が君主の宮殿をかざったが、そのような宮廷文化とともに、ジャーナリズムなどの、豊かな消費生活を送るようになった広範な市民が支える市民文化も、ときとともに成長した。(p.275)

 

第10章『近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立』

18世紀後半のヨーロッパと北アメリカでは、世界的なインパクトをもつことになる事件があいついだ。すなわち、イギリスにおける産業革命、イギリス領北アメリカ植民地の独立とアメリカ合衆国成立(独立革命)、フランス革命である。このうちアメリカ独立革命フランス革命は、ともに近代市民社会の成立を画した市民革命と称されている。この時期は、産業革命と市民革命が相互に連関しながら進展する二重革命の時代であった。

イギリスでは、名誉革命の結果として所有権が保障され、また大航海時代以降世界の経済的な一体化が進んで巨大な製品市場が出現するなかで、技術革新(イノベーション)の可能性と魅力が高まった。技術革新によって機械が発明され利用されるようになると、資本家が賃金労働者を雇用して財の生産を営ませる「資本主義」とよばれる生産システムが誕生した。この産業革命は繊維産業、とりわけ綿織物工業で始まった。

イギリス領北アメリカ植民地では、七年戦争後に本国政府が経済介入政策を強化したことに対する反発が強まり、独立を求める戦争が始まった。戦争中に植民地側が発表した「独立宣言」では、自由・平等・基本的人権など、近代市民社会の原則が明記された。

フランスでは、あいつぐ戦争による国庫の疲弊とイギリス産業革命に対応するための諸改革によって社会全体が混乱するなかで、革命が勃発した。革命の過程では、さまざまな社会階層の利害が複雑に絡み合うなか、封建的土地所有の廃止、「人権宣言」の採択、憲法の制定、恐怖政治など、多様な事態が生じ、近代市民社会国民国家への道が整備された。

二重革命は、世界各地にさまざまなインパクトを与えるとともに、他の地域に対するヨーロッパと北アメリカ(アメリカ)の優越をもたらすことになった。(p.301)

 

第11章『欧米における近代国民国家の発展』

本章では、フランス革命ナポレオン戦争後の、19世紀のヨーロッパと南北アメリカの動向を扱う。

イギリスから始まった産業革命と、アメリカ独立革命フランス革命の市民革命という二重革命によって、欧米先進諸国は近代市民社会の形成に向かい、工業化・立憲的自由主義などの近代化の潮流が強くなった。一方、ナショナリズムも広がり、イタリア・ドイツでは統一国家が樹立され、東欧・南欧諸地域でも、オスマン帝国ハプスブルク帝国内で自立や独立を求める民族運動が台頭した。

ウィーン会議後、イギリス・ロシア・オーストリアプロイセンによる四国同盟(のち、フランスが参加して五国同盟)を中心とする列強体制、ウィーン体制が成立した。オーストリアメッテルニヒの指導のもとで、ウィーン体制は政治的・社会的現状維持をめざすが、1848年革命によって崩壊した。列強体制はクリミア戦争で一時的に消滅して、ヨーロッパ諸国は国内改革や経済発展に専念し、イギリスフランスは1850年以降アジアへの進出をはかり、イタリア・ドイツは国家統一に成功した。

1870年代以降、列強体制はドイツの主導するビスマルク体制として再構築され、ヨーロッパ中心部では第一次世界大戦まで長期の平和を享受した。70年代から19世紀末までは、先進諸国は大不況といわれる低成長期を迎え、自由貿易から保護貿易への転換が進められたが、ドイツなどはこの間に電機・化学などの新重工業の基礎を築いた。世紀末からは、景気は回復し、市民文化と近代科学がめざましい進展を遂げた。

モンロー主義によって、ヨーロッパとの相互の関与関係から離れたアメリカ合衆国も、南北戦争で国内対立を調整したのち、西部開拓を進めて太平洋岸に達し、豊富な資源をもとに世紀末には世界一の工業力を誇った。(p.321)

 

第12章『アジア諸地域の動揺』

18世紀の後半からオスマン帝国ムガル帝国そして清朝というアジアの諸帝国では、中央権力が弱体化して地方の統制がゆるむ傾向が進み、それと並行してヨーロッパ勢力の干渉と植民地化の動きがアジアのほぼ全域で本格化するようになった。本章では、19世紀を中心にこのようなアジア諸地域の動向を概観する。

オスマン帝国では、ナポレオン戦争後エジプトに自立したムハンマド=アリー朝がイギリスの軍事占領によってその保護下におかれたほか、財政の破綻によってイギリス・フランスなどへの経済的な従属が深まった。インドではイギリス東インド会社による植民地化が進行し、人々はインド帝国体制のもとでイギリス主導の世界経済システムに取り込まれていった。白蓮教徒の反乱で揺らいだ清朝は、アヘン戦争とアロー戦争の結果、列強への従属を強いる不平等条約のもとにおかれ、同時に太平天国の動乱によって危機的な状況に陥った。東南アジアもまた、オランダ領ジャワやフランス領インドシナ連邦のように、タイを除く全域が植民地と化し、アジア諸地域は帝国主義の時代を迎えることになった。

こうした植民地化の圧力に対して、アジア諸地域ではさまざまな抵抗や応戦が試みられた。インドにおけるシパーヒーの大反乱やエジブトのウラービー運動は、直接的な抵抗の代表的な事例である。アフガン戦争のようなイギリスの侵略戦争に対する応戦もこれに加えることができる。一方で、オスマン帝国のタンジマートや清朝の洋務運動のように、西欧の制度や技術を導入することによって国家の再編・強化をめざす動きもあらわれた。このような改革運動は、ただちに従属状況を変えるものとはならなかったが、次世代の人材育成や新しい思想潮流を生み出したことは重要である。

加えて、以上のようなアジア諸地域の動向のなかで、明治維新以降の日本の近代史を考えることも大切である。日清戦争が示すとおり、東アジアの近代史を理解するうえで、その考察は欠かすことができない。(p.363)

 

第13章『帝国主義とアジアの民族運動』

この章では、19世紀末から第一次世界大戦にいたる、いわゆる帝国主義時代が対象となる。この時期は、1880年代に欧米先進国による領土の単独・直接支配をめざすアフリカ・アジア地域の分割、いわゆる「公式帝国主義」が一段落した後、対象地域の政治・社会・経済構造を資本投下を通じて支配や搾取に適合する構造に変容させる方式、つまり経済浸透による間接的な支配(「非公式帝国主義」)が追求されるようになった。カに頼る抑圧的な植民地支配が本国世論や国際社会から批判されるようになり、また他列強との軍事衝突の危険も高まったからである。非公式帝国主義は、イギリス・ロシア・フランスなど先進帝国主義国間での支配圏の調整を促す一方で、ドイツ・イタリアなど後発帝国主義国の再分割要求を強めることにもなった。この新たな方式による帝国主義の登場と拡大によって、世界の一体化はたんに地域間の経済的交流と欧米諸国による一部地域の支配にとどまらず、欧米先進国と非欧米地域の間に緊密な支配・従属関係を生み出した。カを背景とした欧米諸国の価値基準がアジア・アフリカの従属地域に導入され、それにともなって従属地域の伝統的社会構造や文化体系の破壊と変容が進むというより強い一体化(一体化の実質化)への移行が進められた。

欧米列強の軍事的・経済的攻勢に直面したイスラーム世界・インド・中国・ラテンアメリカ地域では、自らの伝統的な慣貫習宗教などの価値規範を活性化させて民衆を結集し、大規模な蜂起行動で抵抗するマフディー派や義和団のような動きがあった。他方では内政改革や社会・産業の近代化を推進して既存の支配体制や経済基盤の立て直しを試みることで、列強に対抗しようとする動きもあった。こうした抵抗の潮流の多くは欧米列強の軍事的圧力に挫折したが、やがてオスマン帝国やインド、さらに中国では自立を求める民族運動が台頭し、新たな大衆基盤に立った民族独立・解放運動の萌芽や起点となった。

帝国主義をめぐる列強体制の亀裂と多民族帝国を揺るがす民族運動の台頭が交錯する状況は、第一次世界大戦への道をつくり出すことになる。(p.395)

 

第14章『二つの世界大戦』

本章の対象は、第一次世界大戦開戦から第二次世界大戦終結までのほぼ30年間である。その時期は、前後の時代が経済的好況を呈し大国間の直接的軍事衝突がなかったのとは対照的に、両大戦、国境をめぐる小戦争や内戦、従属地域での民族解放・独立運動の台頭、賠償・戦債支払いによる不況、その後の大恐慌による世界経済の崩壊などによって、政治・経済・社会の一大転換期となった。20世紀が「戦争の時代」「暴力の時代」といわれるのも、おもにこの両大戦期が与えた衝撃の大きさによっている。

第一次世界大戦はその規模・範囲・期間だけでなく、総力戦という性格によって、19世紀的ヨーロッパ近代文明を根底から揺るがし、大戦後の世界に新たな未来社会構築の模索をよぎなくさせ、その結果、この時期は全般的な不安定が続く時代となった。1920年代は、国民主権に基づく国民国家を単位とするヨーロッパのヴェルサイユ体制、ソ連社会主義体制、大衆消費社会を基礎に現代文化を追求したアメリカ合衆国、地域的支配圏確立を追求する日本、さらにアジア・アフリカでは自立や解放をめざす中国・朝鮮・インド・トルコなどの新国家創設運動や、イスラーム世界の民族運動の展開などが競合・並行する移行期となった。30年代になると世界恐慌の影響から世界経済は崩壊し、議会制民主主義や国際主義への信頼は揺らぎ、そのなかで自国優先主義が支配的行動基準となってブロック経済の拡大、強権的独裁による国民統合の動きが主流となった。

とりわけ日本・イタリア・ドイツはファシズム的支配体制のもと、日本の大東亜共栄圏、イタリアの地中海帝国、ドイツの東方生存圏という支配圏確保を掲げて、近隣諸地域への侵略に向かった。枢軸国の挑戦を受けて、西欧諸国とアメリカ、ソ連を中心に、反枢軸諸国は大西洋憲章を共通原則に連携して連合国として結束し、第二次世界大戦となった。自国の利益のみを追求し、過酷な占領地支配・収奪を続けて、事実上全世界を相手にした枢軸国の敗北で、大戦は1945年に終わり、この時期にあらわれた現代の諸問題への解決の取組みが、戦後の課題となった。(p.429)

 

第15章『冷戦と第三世界の独立』

第15章では、第二次世界大戦直後の1945年から米ソ間の冷戦が終結する90年代初めまでの約半世紀を扱う。近年では、ソ連邦の解体による冷戦の終結を受けて、旧ソ連側の史料を利用した研究が出版されたうえ、中国での一部史料の公開や当事者の回想録の出版が進んできた。その結果、もっぱら欧米側の史料に依拠してきた「冷戦史」研究は、東西両陣営の双方向からの研究へと進展してきた。その個々の成果は、各節の解説で紹介するとして、ここでは、第15章全体の世界史的位置の確認をしておきたい。

第1に、膨大な犠牲者を出した第二次世界大戦の反省から、当初は国際連合などの国際機関の設立や地域統合による紛争の平和的処理が重視された。第2に、アジア・アフリカなどの植民地が政治的に独立し、経済的自立が模索された。第3に、戦後世界では、1930年代のブロック経済化が第二次世界大戦の原因となったとの反省から、アメリカ合衆国を中心とする貿易自由化体制が構築され、先進国では「大衆消費社会」化が進行したが、同時に、環境の破壊や資源の枯渇にも直面した。第4に、戦後世界ではソ連以外に、東欧・中国・ベトナムキューバなども社会主義陣営に加わり、東西対立が激化したうえ、核軍拡も進んで、戦争瀬戸際の「冷戦」が常態化した。しかも、東側陣営ではほどなく中ソ対立が深刻化したうえ、共産党一党体制の矛盾もあって、西側のような「大衆消費社会」化に遅れをとっていった。第5に、独立を達成した旧植民地諸国では、米ソを中心とする二大陣営には加わらず、非同盟路線などを採用して「第三世界」を形成した。これらの国々では経済的困難に直面することが多く、先進国との間で「南北問題」が発生したが、1970年代以降になると工業化に成功する国もあらわれ、「南南格差」が発生した。

このように、第15章で扱う時代は、近代に拡大した植民地支配が否定され、近代に確立した「主権国家」の権限が国際機関の設置などにより制限を受けたり、「大衆消費社会」化が普及するなど、「近代」から「現代」への移行を特徴づける時代となった。(p.491)

 

第16章『現在の世界』

冷戦終結前後から現在までを扱う本章において、①情報・通信や金融・サービスの分野を中心とするグローバリゼーション(グローバル化)の進展、②ヨロッパ連合(EU)や東南アジア諸国連合ASEAN)などに象徴される地域協力・地域統合の進行、③内外格差の拡大を背景とした地域・宗教紛争や国際テロ活動の多発といった現象は無視できない。それは「近代世界」の問題点を克服する「脱近代」の動きとも評価できる。

その第1は、紛争の平和的解決である。「主権国家」を絶対視し大国による植民地支配を自明視していた「近代」においては、「国民経済」単位の工業化や民主化が推進され、ナショナリズムが高場した。しかし、「主権国家」の絶対化はしばしば戦争による国益拡大を正当化(「正戦論」)させ、戦争による犠牲者を増大させた。その頂点が20世紀前半に起こったニつの世界大戦であり、数千万もの犠牲者を出した。その反省から第一次世界大戦後には国際機関が設立され、さらに第二次世界大戦後にはヨーロッパの統合が開始され、紛争の平和的解決の方策が模索されてきた。

第2は、第二次世界大戦後、アジアやアフリカを中心とした「脱植民地化」の進行と、その過程で勃発した民族独立・統一戦争である。大国間では武力衝突の機会が減少する一方で、途上国の独立や統一に米ソ冷戦が影響するかたちで展開した。朝鮮戦争ベトナム戦争中東戦争はその事例であろう。

第3は、新興国の経済発展である。「脱植民地化」の動きは1960年代にはほぼ完了し、むしろ新興独立国における工業化や民主化が、非同盟運動などの「第三世界」間の連携の動きと並行して進行した。とくに73年の石油危機以降は、途上国のなかでも工業化に成功する国々がでる一方、アフリカなどの「最貧国」との間で地域間格差が拡大した。また、中国やインドなどの工業化は近代以来の欧米化の体制に大きな変化を与え始めている。

このような第一次世界大戦後頃からめだち始めた「脱近代」の動向に、冷戦終結後の新しい特徴が加わったのが、「現在の世界」といえるだろう。(p.525)

詳説 世界史研究 第16章 地域紛争の激化

ほとんどが地理の範疇なので絞りました。

 

『地域紛争の激化とその原因』

今日の紛争の原因は、大きくはつぎのように分類できる。第1は、第二次世界大戦後に一気に進んだ世界的な国民国家体制の完成に乗り遅れた、あるいは成立した国民国家体制に違和感をもつ集団の国民国家領域再編への要求、第2は、冷戦期に誕生したアフリカ新興国の分裂と主導権抗争、第3は、ソ連邦の解体による冷戦構造の終焉により生まれた国民国家領域設定の争い、第4は、経済構造の多極化にともなう経済権益をめぐる争い、第5は、イラン革命以降の宗教的覚醒の強まりと宗教を名目にしての秩序再編への暴力的な動きと、それを押さえ込もうとする諸大国の軍事的対応である。(p.536)

 

『アフリカ新興国の分裂と主導権抗争』

南アフリカ共和国では、人種差別の撤廃運動が進んだ。運動の象徴となったのはマンデラであり、早くからアフリカ民族会議(ANC)を足場に反アパルトヘイト運動を展開していた。しかし、非暴力運動から武装闘争への方針転換によって逮捕され、64年に反逆罪で終身刑となった。長い獄中生活でマンデラは解放運動の象徴となり、国際社会の支援も受けて91年に釈放された。ANCに復帰したマンデラは運動を再開し、91年にはアパルトヘイト法案が一部廃止された。94年の全人種による制憲議会選挙では、ANCが勝利しマンデラは大統領(任1994〜99)となり、アパルトヘイト法も完全に撤廃された。しかし、経済状態は深刻なまま現在にいたっている。(p.538)

 

ソ連邦解体後の紛争』

東欧でも、国民国家の領域確定をめぐる紛争が起こった。とくに深刻な問題が発生したのはユーゴスラヴィアであった。多くの民族・言語・宗教からなっていたこの国は、1974年から6つの共和国と2つの自治州からなるユーゴスラヴィア連邦となっていたが、全体としてはセルビア人が多数を占めていた。ペレストロイカが進行するなかで、90年に各共和国で選挙が実施され、連邦のなかからいくつかの国が分離独立することとなった。91年にスロヴェニアとクロアティア両共和国議会が独立宣言を採択し、そのうちスロヴェニアスロヴェニア人が圧倒的多数を占めていたこともあり、独立を阻もうとするユーゴスラヴィア連邦軍との短期の戦闘はあったものの独立をはたした。他方クロアティアでは、その人口の1割強をセルビア人が占めていたことから、独立はセルビア人を少数派にしてしまうために、激しい紛争が生じた。一時はセルビア人がその内部に共和国を創設したが、95年にクロアティア側がそれを崩壊させ、内戦は終息した。他方、同じくユーゴスラヴィア連邦からの独立をめざしたボスニアでは、独立をめぐってボシャニク人とよばれるイスラーム教徒、セルビア人、クロアティア人が対立し、92年に内戦状態となった。民族浄化ともよばれる悲惨な戦いにより多くの犠牲者がでたことから、93年からNATO軍が介入し、94年にボスニアを2分割するボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦が発足した。しかし、セルビア人勢力がそれを拒否したことから、混乱は続いた。95年にNATO軍が軍事的な圧力を加え、同年にようやく合意が成立して内戦は終息した。一方、今度は自治州であったコソヴォにおいて、独立をめぐる武力闘争が始まった。コゾヴォは、アルバニア人が8割近くを占める地域であり、80年代初めから独立をめざす運動が始まっていた。96年からはコソヴォ解放軍による武力開争が始まり本格的な紛争となった。99年のNATO軍の空爆やその後の進駐、ロシア軍の進駐、大量の確民の発生などをへて、2008年にコソヴォは独立を宣言した。しかし、その独立を承認していない国は少なくない。(p.539)

詳説 世界史研究 第16章 途上国の発展と独裁政権の動揺

『途上国の民主化

韓国では、南北分断による緊張状態が続くなかで民主化運動が盛んになった。1980年に勃発した光州事件を弾圧した軍人出身の全斗換政権は、不正蓄財を批判され、88年に崩壊した。93年には、金泳三(任1993〜98)が大統領となって文民政権が誕生し、光州事件清算がなされた。そして、98年には反軍政、民主化運動に長くかかわってきた金大中(任1998〜2003)が大統領となるにいたった。その後現在にいたるまで、民主的な体制が維持されている。(p.532)

 

タイでは、軍事クーデタがあいつぎ不安定な政権運営がなされていたが、1992年に文民政権が誕生した。(p.532)

 

フィリピンでは86年に、独裁を敷いていたマルコス大統領が大規模な民衆運動によってアメリカに亡命し、アキノ(任1986〜92)政権が誕生した。(p.532)

 

インドネシアでは、九・三○事件によって政権を奪収した軍人出身のスハルトが長期にわたって独裁的な政治をおこなってきた。しかし、98年のジャカルタ暴動によって政権が崩壊し、99年の総選挙で民主政権が誕生した。(p.532)

 

長らく軍事政権のもとで鎖国政策をとっていたビルマ(89年にミャンマーと改称)でも、一時は民主化勢力によって打倒された軍事勢力がアウンサンスーチー(1945〜)が率いる民主化勢力を弾圧していたが、民主化の動きのなかで2016年にようやく文民政権が誕生した。(p.532)

 

マレーシアでは、1969年の五・ー三事件によって華人勢力が力を失い、マレー人優先のプミブトラ政策がとられ、マハティール首相(任1981〜2003)  によって日本をはじめとする外資の積極的な導入がなされた。97年の経済危機も、強権的な治安維持法の発令によって乗り切った。マハティールが政権をおりてからも、近年にいたるまで指導部の腐敗が報じられることが多い。(p.532)

 

シンガポールは、リー=クアンユー首相(任1959〜90)とその一族のもとで、典型的な開発独裁国家として成長してきた。そこでは、体制維持のためのさまざまな方策がとられているが、国民は経済発展の果実を味わっており、国のサイズも極めて小さく、民主化運動が表にでにくい構造となっている。

 

インドでは、強権化した国民会議派政権が1977年の総選挙で倒れ、ジャナタ党を主体とした非会議派政権が誕生した。80年代は、インドの経済に成長への基本的な変化が生じた時期である。緑の革命とよばれる60年代半ばから開始された農業生産力の強化の成果が出始め、食糧問題がインド経済の足を引っ張らないようになった。また、中東でのオイルブームにより、インドからの出稼ぎとそこからの送金も急増した。しかし、80年代末から90年にかけての国内政治の混乱をヘた90年の湾岸危機の発生とそれに続く戦争の勃発は、中東への移民からの送金を激減させ、深刻な外貨危機が生じた。破産の危機に瀕したインドは、緊急融資と引き換えに国際通貨基金IMF)が課した構造調整プログラムとよばれる一連の自由化政策を実施することを受け入れ、経済の自由化へと大きく舵をとった。(p.533)

 

ラテンアメリカ諸国では1980年代に、先進国から借り入れた債務の返済が困難になる累積債務問題が深刻化した。そのうえ、工業化による中産階級の成長の結果、開発独裁とよばれた多くの軍事独裁政権が80年代に倒され民政移管が進んだ。(p.533)

 

アルゼンチンでは、82年にイギリスとフォークランドマルビナス)諸島をめぐる戦争で敗れた軍部政権が翌83年に倒れた。ブラジルでも85年には民政移管が決定した。(p.533)

 

チリは、アジェンデ(任1970〜73)を首班とする左翼連合政権が73年にピノチェト(任1974〜90)を中心とする軍部のクーデタで倒されてから軍部独裁政権が続いた。しかし、83年の経済危機以降、軍部を批判する運動が高まり、88年の国民投票で民政移管が決定された。(p.533)

 

『アジア社会主義国家の変容』

文化革命後に実権を握った鄧小平は、四つの近代化を決定し、中国は「改革開放政策」のもと、市場経済へと大きく転換を始めた。農業の生産請負制の導入と人民公社の解体によって農業生産が増大し、沿海部には経済特区が設立され、外資の導入により経済成長が進展した。一方で、経済発展にともなう物価上昇や官僚の腐敗、経済格差への不満も高まり、1989年には北京で大規模な民主化運動が発生したが、6月4日に武力によって鎮圧された(天安門事件)。その際に民主化運動に同情的であった趙紫陽総書記(任1987〜89)は失脚し、新たに江沢民(任1989〜2002)が総書記となった。(p.534)

 

中国と同様に、社会主義から急速な市場経済化がはかられたのがベトナムである。長期にわたり大きな被害をもたらしたベトナム戦争が1975年に終結し、ベトナム社会主義共和国として76年に南北統一がなされ、政治的な安定を取り戻した。86年にはドイモイ(刷新)スローガンが打ち出され、大きな人口をかかえていることから、有望な投資先とみなされ、近年では日本や韓国などからの活発な投資が加わって、急速な経済成長を遂げるにいたっている。(p.534)

 

カンボジアでは、内戦状況のなかでアメリカ軍による激しい空爆を受けながら、75年にポル=ポトが民主カンプチア政権を樹立した。しかし、そこでは狂信的な共産主義統治が敷かれ、知識人を中心として、多くの人々が虐殺された。ポル=ポト政権打倒をめざすカンプチア救国民主統一戦線をベトナム軍が支援し、79年にポル=ポト政権が打倒されて親ベトナムカンプチア人民共和国が樹立された。他方、ポル=ポト派や反べトナム勢力などはその後も抵抗を続け、82年には民主カンボジア連合政府を樹立し、国連での議席も得て、90年には国民政府と改称した。両者の泥沼の抗争が続いたが、冷戦終結の世界的な状況のなかで、ようやく90年に最高国民評議会が、91年には国連カンボジア暫定統治機構がそれぞれ設置された。93年には総選挙がおこなわれ、シハヌークを国王とした立憲君主国であるカンボジア王国が成立し、現在にいたっている。(p.535)

詳説 世界史研究 第16章 社会主義世界の変容とグローバリゼーションの進展

『東欧の民主化ソ連邦の解体』

ブレジネフ指導部はスターリンの大テロルによって抜擢された世代で固められており、老人支配の様相を呈していた。政権が末期的な状態にあることを示したのは、1979年末に起きたソ連アフガニスタン侵攻である。前年に同国に成立した共産主義政権が内紛によって不安定化し、傍観すれば過激なイスラーム主義の伸張を許しかねないという事情があった。だが、隣国への軍事侵攻は、アメリカ合衆国によるベトナム戦争の失敗の繰り返しでもあった。イスラーム過激派の抵抗によって、アフガニスタンベトナム同様に泥沼化した。(p.526)

 

西側世論はソ連の挙に反発し、80年のモスクワオリンピックをボイコットした。デタントは終わり、米ソ関係は新冷戦とよばれる緊張段階にはいった。この年、アメリカでは反共主義的言辞を振りかざすレーガンが大統領になった。(p.526)

 

ポーランドではワレサを指導者とする独立系労働組合「連帯」が起こったが、81年にポーランド政権は戒厳令を出してこれを押さえ込んだ。西側世論はこの動きにも反発し、東西の空気はいっそう冷え込んだ。(p.526)

 

ゴルバチョフは異なる体制間の相互依存を標榜する「新思考外交」を揚げ、グルジアジョージア)のシェワルナゼを外相に抜擢し、西側との関係改善に着手した。初めレーガンゴルバチョフをあまり信頼していなかったが、1985年のジュネーヴ、86年のレイキャビクと会談をかさね、徐々に人間的な関係を深めていった。87年末のワシントンでの首脳会議で、両者は中距離核戦力(INF)全廃条約調印に遭ぎつけた。核戦争の脅威が過去のものとなりつつあると世界中の人々が感じていた88年にはゴルバチョフアフガニスタンからの撤退に合意した。(p.527)

 

ソ連が侵攻してこないと悟った東欧諸国の人々は抑圧的な社会主義体制を一気に見限った。ソ連の後ろ盾を失った諸政府の側でも、自由化を進める以外の道はなかった。1989年1月にハンガリーでは一党独裁が否定された。6月にポーランドでは複数政党制による自由選挙が実施され、「連帯」が圧勝した。東ドイツでも長期政権を築いていたホネカーが11月に退陣し、その一月後にベルリンの壁が開放された。12月には復権したドプチェク連邦議会議長、任1989〜92)や、反体制派知識人であったハヴェル(大統領、任1989〜92)がチェコスロヴァキアで政権に就いた(ビロード革命)。改革をかたくなに拒んでいたルーマニアチャウシェスクは、12月に民衆蜂起のなかで処刑された。ゴルバチョフの期待に反して、東欧の人々は豊かな西側に急速に接近した。89年末にゴルバチョフレーガンの後継者であるブッシュ(父、任1989〜93)と地中海のマルタ島沖で会談して、冷戦終結を宣言した。(p.527)

 

西ドイツのコールとアメリカのブッシュが、ドイツ統ーに向けて粘り強く交渉を進めた。ゴルバチョフは統一ドイツをNATOに残すことをためらったが、コールが経済援助を提案し、西側との協調関係も維持したかったので合意を与えた。第二次世界大戦後にドイツを分割統治した米・ソ・英・仏の4カ国が合意し、1990年10月に東西ドイツは統一された。翌年、長らく東欧諸国をまとめてきたコメコンワルシャワ条約機構は解消され、東欧社会主義は消滅することになった。(p.528)

 

ゴルバチョフは内政では「加速化」にかえて、「ペレストロイカ」(立て直し)を新しいスローガンにした。彼はあくまで社会主義の理想を信じており、国民も一緒になって体制の再生に取り組んでくれると考えていた。彼は「グラスノスチ」(情報公開)を唱えて国民との提携をはかり、共産党組織に圧力をかけようとした。だが、共産党組織は改革には消極的であったため、ゴルバチョフ大統領制などの新たな制度によって、共産党組織から実権を奪おうとした。(p.528)

 

党・政府内の保守派は、91年8月、よりゆるやかな新連邦条約が締結される前日に、ゴルバチョフを軟禁してクーデタを敢行した。これに対して、エリツインを先頭とするモスクワ市民が抵抗し、クーデタは3日で失敗した。連邦中央機構は麻揮した。12月、ロシア連邦ウクライナベラルーシの3共和国が「独立国家共同体」(CIS)の創設に合意したが、これはソ連の解体宣告に等しかった。12月26日ソ連は消滅した。(p.529)

 

『通商の自由化と地域統合の発展』

1980年代は2度にわたる石油危機の影響を受けて先進国が長期の不況に陥り、その不況を対外輸出で乗り切ろうと激しい貿易摩擦を引き起こしていた時代であったことである。とりわけEC諸国は、技術革新を推進したアメリカや日本に比べて不況が長引き、高い失業率に苦しめられていた。それだけに、85年末に単一欧州議定書を締結し、それまでの関税同盟的な性格から、商品だけでなく人間の自由移動や金融取引の域内自由化に踏み込んだ。この合意が93年発効のマーストリヒト条約となり、ヨーロッパ連合EU)  の発足、99年の共通通貨ユーロの発行に結実したのであった。元来、通貨の発行は主権国家の排他的権利であるが、EUがユーロという共通通貨の発行に踏み込んだことは加盟国が自ら主権制限を受け入れたことを意味し、EUが経済統合から政治統合に進む兆候を示すもので、事実、その後EUは共通憲法の制定を模索していく。(p.530)

 

 

詳説 世界史研究 第15章 石油危機と世界経済の再編

『国際経済体制の行き詰まり』

1960年代末になると、ベトナム戦費の増大によるドル価値の下落、ヨーロッパ経済共同体(EEC)や日本の台頭による貿易赤字の拡大の結果、71年には1世紀近く続いた質易収支の黒字が赤字に転換し、大量の金が流出するというドル危機が発生した。ニクソン政権は71年にドルと金との党換停止、10%の輸入課徴金の導入を発表し、世界に衝撃を与えた(ドル=ショック)。ここに金との兌換性をもったドルを基軸通貨とするブレトン=ウッズ国際経済体制は転換点を迎え、73年以降、世界経済は変動相場制に移行し、アメリカ・西欧・日本の三極構造に変わっていった。(p.521)

 

原油国が組織を結成して、原油の価格や生産量を決定する行為を石油戦略とよぶが、これは60年代を通じて資源ナショナリズムが高まり、産油国における石油資源に対する主権が確立したことのあらわれだった。(p.521)

 

国際経済上の危機に対応するために、1975年以降毎年、先進国首脳会議(サミット)が開催されるようになったが、この動向は、30年代の長期不況のなかで先進国がブロック経済化に走り、国際協調主義が著しく後退したのと対照的であり、70年代にはそれだけ先進各国の国際経済への依存の深まりを象徴していた。(p.522)

 

81年に大統領に就任した共和党レーガン(任1981〜89)は、民間経済の再生のための規制緩和や減税を重視し、「小さな政府」の実現をめざす「新自由主義」的な政策を追求した。同様な政策は、イギリスのサッチャー(任1979〜90)保守党政権、西ドイツのコール(任1982〜98)中道保守連立政権、日本の中曽根康弘(任1982〜87)自民党政権でも導入され、規制緩和国営企業の民営化が推進された。この「新自由主義」政策は、90年代の冷戦終結後に進行するグローバリゼーションの有力な1タイプとなっていく。(p.522)

 

『日本の経済発展と経済摩擦』

1950年代半ばからの日本の高度成長は70年代初めに終了したが、日本の輸出増大は続いており、繊維・鉄鋼・自動車などの分野で日米貿易摩擦を引き起こした。80年代もアメリカ経済の低迷は続き、85年のプラザ合意の結果、急激な円高が進んだものの、日米貿易の不均衡は改善されなかった。そこで日本は内需拡大策を推進、余剰資金が国内外の不動産や株式投資に向けられたために80年代後半にバブルが引き起こされ、90年代初頭のバブル経済の崩壊にともなう経済の停滞に、20年にわたって苦しむことになる。(p.522)

 

西アジアの動向』

1970年代末、西アジアの情勢は大きく変化した。78年エジプトのサダト大統領(任1970〜81)とイスラエルのベギン首相(任1977〜83)は、アメリカのカーター大統領(任1977〜81)の仲介で、イスラエルが占領中のシナイ半島を巡還するかわりにエジプトはイスラエルを承認すること、そしてパレスチナ人の暫定自治を実施することを骨子とする和平合意を結び(キャンプ=デーヴィッド合意)、翌年エジプト=イスラエル平和条約が締結されて、パレスチナ問題は新しい局面を迎えた。(p.523)

 

イスラーム国家の樹立を構想するハマースは、93年にクリントン大統領(任1993〜2001)の仲介でPLOアラファト議長イスラエルのラビン首相(任1974〜77、92〜95)が結んだパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意、1993)に反対し、極右のユダヤ教徒青年によるラビン首相の暗殺(1995)以後、和平プロセスの推進から力の誇示へと転換したイスラエルとのはてしない闘争へと突入した。パレスチナ暫定自治政府は95年、ヨルダン川西岸とガザ地区を領土として活動を始めたが、イスラエルとの最終的な合意の道は険しく、内部対立に加えて9.11事件(2001年アメリカ同時多発テロ事件)以後の「テロ戦争」の構図も、パレスチナ問題に混迷をもたらしている。(p.523)

 

イランでは左翼武装集団からリベラルな知識人、シーア派ウラマーなど多様な勢力がパフレヴィー朝の専制に対する反対運動を展開し、とりわけパリ亡命中の宗教指導者ホメイニ(1902〜89)は、情報メディアを駆使して反国王運動で比類のない大衆動員力を発揮した。79年2月帰国したホメイニは、国民投票の結果を踏まえてイラン=イスラーム共和国の樹立を宣言した(イラン革命)。新しい憲法は彼が提唱した「法学者の統治論」を盛り込み、独自のイスラーム体制を志向するものであった。それは、現実にはその後の革命諸勢力の熾烈な権力闘争とアメリカ大使館占拠に始まる対米対決姿勢、革命防衛隊によるクルド自治運動の武力鎮圧、そして長期にわたるイラン=イラク戦争(1980〜88)をへて確立された。(p.524)

 

イランを封じ込めるために、アメリカはイラクのサダム=フセイン(任1979〜2003)政権への軍事的な支援を強化したが、それは湾岸地域におけるイラクの軍事大国化を促し、結果として91年の湾岸戦争を引き起こすことになった。この戦争は、アメリカの湾岸政策の破綻を明示するとともに、冷戦後の世紀末に向かってイスラーム世界対欧米という対立の構図を際立たせたことで重要な意味をもっている。(p.524)

詳説 世界史研究 第15章 第三世界の台頭と米ソの歩み寄り

『アジア・アフリカの連帯と平和五原則』

平和五原則とは、1. 領土・主権の尊重、2. 対外不侵略、3. 内政不干渉、4. 平等互恵、5. 平和的共存をいう。インド・パキスタン・セイロン・インドネシアビルマコロンボ=グループとよばれる国々のよびかけで、1955年にインドネシアのバンドンで第1回アジア=アフリカ会議が開催され、この五原則は、さらに「平和十原則」に発展した。そこでは、反帝国主義・反植民地主義を柱とした連帯が謳われた。米ソの対立がさらに深まるなかで、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国が第三世界として連携し、積極的中立の立場をとることの意味が強く認識され、61年には、ユーゴスラヴィアベオグラードに25カ国が参加し、第1回非同盟諸国首脳会議が開催された。(p.509)

 

『連帯の崩壊』

59年にチベットのラサで起きた反乱とダライ=ラマ14世  (任1940〜)のインドへの亡命は、平和五原則を破ってのインド軍の中国領進入を導き、両国間の緊張を高めた。62年には大規模な軍事衝突が生じ、対立は決定的なものとなった。連帯の崩壊は、それまでの有力な柱であった指導者に大きな動きがあったことによって、さらに加速した。インドネシアスカルノ大統領は、65年九・三〇事件で失権した。エジプトのナセル大統領(任1956〜70)は、スエズ運河国有化によるスエズ戦争第2次中東戦争、1956〜57)をへて大きくソ連に接近した。(p.509)

 

『アフリカ諸国の独立と苦悩』

長くフランスが支配してきた北アフリカでは、リビア(1951)、モロッコチュニジア(1956)があいついで独立し、イギリスの勢力圏でエジプトとの関係が深かったスーダンも1956年に単独で独立した。しかし、100万ものフランス人入植者が住むアルジェリアでは、戦後もアルジェリア人の政治的な権利は認められず、独立を求めるアルジェリア人は民族解放戦線(FLN)を結成して54年武力闘争に決起し、フランス軍・入植者の武装勢力を相手に7年を超える独立戦争を戦い、62年ようやく独立を達成した。(p.509)

 

サハラ以南でもパン=アフリカ主義の理想を掲げたエンクルマ(ンクルマ、任1960〜66)が、57年イギリス領からガーナの独立を導き、翌年彼が全アフリカ人民会議を主催して反植民地主義とアフリカの統一をよびかけた後、独立運動の波はさらに広がった。60年には一挙に17の独立国家が誕生し、この年は「アフリカの年」とよばれる。(p.509)

 

63年にはエチオピア皇帝ハイレ=セラシエ1世(任1930〜74)の尽力によって、アジスアベバにアフリカ30カ国の首脳が参集してアフリカ統一機構(OAU)が結成され、アフリカ諸国の連帯と発展、植民地主義の一掃をめざすことになった。(p.510)

 

独立直後のコンゴでは、多民族構成のうえに旧宗主国のベルギーが銅・ウラン・コバルトなどの鉱物資源の豊かなカタンガ州の分離独立をはかって介入したことから激しい内戦が起こった(コンゴ動乱、1960〜65)。(p.510)

 

南アフリカ共和国では、人口では少数の白人支配を維持するために極端な人種差別・隔離政策が強化された。国民に白人やアフリカ人などの人種登録を強制して人種間の結婚を禁止し、居住地域も制限するアパルトヘイト(隔離)政策である。(p.510)

 

ラテンアメリカ諸国とキューバ革命

第二次世界大戦後のラテンアメリカ諸国では、1946年にアルゼンチンの大統領に当選したペロン  (任1946〜55、73〜74)のように、民族主義的で改革志向の政権が登場した。これらの政権は、輸入に頼っていた工業製品を自前で生産して経済的自立性を高めたり(輸入代替工業化政策)、土地改革を実施しようとしたりする動きを示した。(p.510)

 

アメリカは、48年にはラテンアメリカ諸国との間で米州機構OAS)を設立し、共同防衛の体制を強化し、反米民族主義の動きを牽制していた。(p.510)

 

アメリカ系の砂糖企業が多数進出していたキューバでは、親米的なバティスタ(任1940〜44、52〜58)による独裁政権が続いていたが、1959年1月、カストロ(任1959〜2008)  を指導者とする革命運動によって打倒される、キューバ革命が発生した。カストロは当初、社会主義的な志向をもっていなかったが、アメリカ系の砂糖企業も含めて土地改革を断行すると、アイゼンハワー政権は61年、キューバと断交し、亡命キューバ人による革命政権の打倒を計画した。この計画は、1961年に発足した民主党ケネディ(任1961〜63)政権にも継承されたが、失敗に終わった。この事件を契機にカストロ政権は、ソ連寄りの姿勢を強めるとともに、社会主義的性格を明確にしていった。他方、ケネディ政権の側では、穏健な土地改革などを助長することで、他のラテンアメリカ諸国へのキューバ革命阻止するため、「進歩のための同盟」を結成した。以後、キューバアメリカによる封鎖にたえながら、存続することになった。(p.510)

 

アメリカからの圧力に対抗するため、カストロ政権は1962年にソ連からの援助でミサイル基地の建設計画に踏み切った。10月、この動きを察知したケネディ政権は、海上封鎖でソ連船によるミサイル資材の搬入を阻止したので、米ソ間では核戦争の危機が一挙に高まった(キューバ危機)。しかし、アメリカの強硬姿勢に驚いたフルシチョフは、アメリカによるキューバへの内政不干渉を条件にミサイル基地の撤去に合意したので、以後、米ソ間では平和共存志向が強まり、翌63年には、地下を除く核実験の禁止条約(部分的核実験禁止条約)が成立した。また両首脳の意志疎通のために、ホワイトハウスクレムリン間に無線電話が引かれた(ホットライン)。(p.511)

 

『米ソ両大国の動揺と平和共存への転換』

アメリカの支配は、旧来の「梶棒外交」、また経済的な支配と冷戦の論理とが複雑に絡み合っていた。自由主義全体主義というイデオロギー的構図は前提としてあったが、たとえ独裁政権を相手にする場合でも、それがアメリカ企業や大土地所有者の利害を擁護したり、反共主義的であったりする場合には、迷うことなく支援した。その反面、そうした独裁政権への対抗勢力が政権をとった場合には、親ソ的ないし容共的として非難し、軍事介入も厭わないという立場をとった。アイゼンハワー政権によるグアテマラへの介入(1954)、ケネディ政権によるカストロ暗殺計画(1961)、ジョンソン政権によるドミニカ占領(1965〜66)、レーガン政権によるグレナダ侵攻(1983)など、そうした介入の事例は数多い。アメリカによる軍事介入は、独裁政権の維持や、長期の内戦をもたらすことになった。(p.512)

 

ベトナムへの介入が本格化するにつれ、「帝国主義的」とよびうるその振る舞いに対して、日本を含む世界各地で国際的な非難が巻き起こった。アメリカ国内でも同様であり、さらに人種差別の撤廃を訴える公民権運動の高揚がここに連動した。(p.512)

 

1969年に就任したニクソン大統領は、国務長官キッシンジャーとともに、泥沼化したベトナム介入からの撤退を模索したが、「名誉ある撤退」を求めたために和平交渉はいつまでもまとまらず、その間に北爆も続けられた。ようやくアメリカが撤退するのは73年のことであった。その後も南北ベトナムの戦いは続いたが、75年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落して、北ベトナム主導の統一が成し遂げられた。(p.512)

 

68年にはチェコスロヴァキア共産党ドプチェク(任1968〜69)のもと、社会主義体制の改革運動が起こったが(プラハの春)、ソ連のブレジネフ(任1964〜82)政権はワルシャワ条約機構軍を送り込んでこれを鎮圧した。ブレジネフは社会主義陣営全体の利益のためには一国の主権は制限されるという制限主権論を唱えて、この介入を正当化した(プレジネフ=ドクトリン)。(p.513)

 

東欧の内部でもルーマニアは、65年に成立したチャウシェスク(任1974〜89)政権のもと、豊富な石油資源に支えられてソ連に対する自主性を強めており、チェコスロヴァキア侵攻にも参加しなかった。(p.513)

 

71年、ニクソンは電撃的に訪中計画を発表し、同年末には中華人民共和国が台湾の中華民国にかわって国連の代表権を得た。72年、ニクソンは計画通り訪中し、毛沢東と米中共同宣言を発表し、そのなかで「中国は一つ、台湾は中国の一部」と北京政府が考えていることをアメリカ側が認識したと述べた。なお、同年には田中角栄首相(任1972〜74)も訪中し、日中国交正常化が成立した。(p.514)

 

『ヨーロッパでの緊張緩和』

1968年のチェコスロヴァキア事件ののちも、ド=ゴールやブラントはヨーロッパの緊張級和を追求すべきだと考えつづけた。69年にはブラントが西ドイツ首相(任1969〜74)となった。彼はソ連との関係を改善すべきだとド=ゴールから直接訴えられており、そのことから強い印象を受けていた。ブラント政権のもとで「東方外交」が全面展開するにいたり、72年に2つのドイツ国家は東西ドイツ基本条約に調印し、双方の主権を確認した。これを受けて73年には東西ドイツの国連同時加盟が実現した。(p.514)

 

ポルトガルでは1960年代に植民地アンゴラモザンビークで独立闘争が起こり、平定作戦は泥沼化した。70年に独裁者サラザールが死去したのちも状況は変わらず、軍内には現状の変更を求める声が高まった。74年、軍は無血クーデタを起こして従来の権威主義体制を打倒し、民主化の道を開くとともに植民地も放棄した。(p.515)

 

スペインでは75年に独裁者フランコが死去すると、彼によって後継者に指名されていたブルボン朝のフアン=カルロス1世(位1975 2014)が、権威主義体制の放棄と民主化に踏み切った。(p.515)

 

『中ソ対立と中国の動揺』

中国では1958年にソ連モデルを離れ、急速な農業・工業の成長をめざす大躍進運動が始まった。簡便な製鉄のための土法高炉やダム建設などの大規模土木事業に人々が動員され、農業では深耕密植(深く耕しぎっしり植え込むことによる増産)が進められるとともに、8000〜1万戸規模の人民会社が設立されて急落な集団化が進められた。しかし、土法高炉で生産された鉄は役に立たず、集団化は農昆の意欲を失わせて農業の生産性を悪化させ、大衆動員や深耕密植は農業生産を低下させることになり、結果として引き起こされた深刻な飢饉により3000〜4500万人が餓死するという大惨事となった。(p.515)

 

大躍進の失敗後、毛沢東国家主席を退き、新たに国家主席となった劉少奇(任1959〜68)や鄧小平(1904〜97)らによる経済再建が進められていた。しかし、毛沢東は権力奪取をはかり、1966年に文化大革命を発動、主導権を握った。学生たちが組織した紅衛兵らは全国に拡大して急進的な運動を繰り広げて混乱状況に陥ったため、68年からは軍によって秩序回復がはかられ、軍の指導者の林彪(1908〜71)は毛沢東の後継者とみなされるようになった。(p.515)

 

76年に周恩来、ついで毛沢東が死ぬと、四人組は逮捕され、文化大革命はようやく終結した。しかし、文化大革命による死者は40〜1000万人、被害者は1億人におよび、社会秩序は崩壊、文化的な損失も大きかった。文化大革命終結後、華国鋒(任1976〜81)を党主席とする指導体制が成立した。しかし、華国鋒共産党内の基盤が弱く、1978年には華国鋒にかわって鄧小平が実権を握り、農業・工業・国防・科学技術の「四つの近代化」を進めていく。(p.516)

 

ベトナム戦争インドシナ半島

南ベトナムではアメリカの支援のもとにゴ=ディン=ジエムが、大統領権限を強めた。これに対し、反ジエム政権とアメリカ帝国主義の打倒を唱えた南ベトナム解放民族戦線が、1960年に結成された。一方アメリカは、63年にズオン=ヴァン=ミン(1916〜2001)にクーデタを起こさせ、軍事政権を誕生させた。ベトナム民主共和国北ベトナム)と連携した解放戦線の攻勢に対して、アメリカは64年にトンキン湾の公海上アメリカ艦艇がベトナム民主共和国の攻撃を受けたとの口実(トンキン湾事件)をもとに、軍事介入を本格化させた。65年に北ベトナム爆撃(北爆)に踏み切ったアメリカ軍は、ダナンに上陸し、続いて韓国軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍も到着し、南ベトナム政府軍とともに解放戦線に攻勢をかけた。中国とソ連の援助を受けた北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、もちこたえた3年にわたる攻防ののち、少なからぬ人的被害を出したアメリカは、1968年に北爆を停止し、パリでベトナム民主共和国ベトナム共和国南ベトナム解放民族戦線アメリカの四者会談をよびかけた。69年にアメリカ大統領となったニクソンは、地上軍を南べトナム政府軍に委ね、アメリカ軍の犠牲を軽減する方針(ニクソン=ドクトリン)を発表した。73年にパリ和平協定が調印され、アメリカはベトナムから撤退することとなった。ベトナムでは、解放戦線が攻勢を強め、75年4月30日にサイゴンを陥落させ、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が終結した。76年に南北ベトナムは統一され、ベトナム社会主義共和国が成立した。(p.516)

 

カンボジアではベトナム戦争中に、社会主義政策を掲げた元首シハヌークとそれに反対する右派ロン=ノル(1913〜85)との対立が深刻化した。アメリカに支援されたロン=ノルは、1970年シハヌークを解任した。これに対しシハヌークは、左派クメール=ルージュと統一戦線を組んだ。クメール=ルージュは勢力を拡大し、75年にプノンペンを占領し、翌年ポル=ポト(1928〜98)を首班とする民主カンプチアを樹立した。(p.517)

 

『東西冷戦とアジアの国民国家形成』

社会主義的な経済政策を推進する国々がある一方で、逆に軍事政権や独裁的な反共体制によって経済発展をはかるという国も少なくなかった。韓国の李承晩・朴正煕、フィリピンのマルコス、インドネシアスハルトシンガポールのリー=クアンユー、マレーシアのマハティールなどのリーダーたちがそうした例であった。そこでは、表現の自由や政治的な自由などの基本的人権を犠牲にしても、経済成長を優先するという政策が志向された。こうした政治経済体制は、開発独裁とよばれる。(p.518)

 

インドネシアでは、共産党イスラーム勢力・国民党の勢力をまとめつつ、親中国路線をとっていたスカルノが、65年の九三〇事件を契機に失脚した。かわってスハルト(任1968〜98)率いる軍部が政権を握った。68年に大統領となったスハルトは、アメリカや西側陣営の諸国の資本を受け入れ、工業化をはかる開発経済政策を打ち出した。スハルトは、共産党を弾圧し、自由な政治活動や言論・出版を厳しく管理した。(p.518)

 

1963年にマラヤ連邦は、イギリス領ボルネオとシンガポールを合体してマレーシアとなったが、65年にシンガポールがそれから分離独立した。(p.519)

 

1967年、インドネシア・マレーシア・シンガポール・フィリピン・タイの5カ国は、友好関係を樹立するために経済社会・文化での相互協力を目的として、東南アジア諸国連合ASEAN)を結成した。当初は社会主義勢力に対抗した域内連合であったが、ベトナム戦争終結とともに城内外の政治的・経済的協力を誕う組織へと変化した。(p.519)

 

『韓国・台湾の開発独裁

1963年に大統領に就任した朴正煕の政権において、その正統性を支えるために重視されたのは経済発展であった。政権は輸出志向型工業路線を選択し、急速な経済成長を始めた。この経済成長を支えたのが、ベトナム戦争への派兵の見返りとしてのアメリカからの外資導入と軍事援助、さらには65年の日韓基本条約にともなう日本からの無償資金と借款および技術協力であった。(p.519)

 

60年代半ばに輸入代替から輸出主導の経済発展に転換、高雄に設立された輸出加工貿易区によって外資を誘致するとともに、民間企業が発展した。72年に実権を握った蔣経国(任1978〜88)のもとでは73年から巨額の投資をおこなう「十大建設計画」によって、交通インフラ整備がおこなわれ、これまでの軽工業にかわって重化学工業が発展、飛躍的な経済成長を達成した。(p.519)

 

西アジア開発独裁

西アジアにおける開発独裁としては、イランの例をあげることができる。モサデグ首相を追放した後、権力の強化をはかるパフレヴィー2世は、1961年アメリカの支援と要請に応えるかたちで王領地の払い下げをおこなったのに続いて、63年「白色革命」と称する上からの改革を宣言した。その中心は、長くイラン社会を支配してきた地主・小作関係を廃止して自作農民をつくりだすという農地改革であった。(p.520)

 

イランの開発は、1973年第4次中東戦争による石油危機で石油価格が高騰し、イランの石出収入が4倍にもなったことによってさらに促進された。莫大な石油収入は国内の産業に投資され、世界的にも顕著な経済成長をもたらした。(p.521)

詳説 世界史研究 第15章 米ソ冷戦の激化と西欧・日本の経済復興

朝鮮戦争

北朝鮮軍は1950年6月に韓国に侵攻し、不意を突かれ、装備でも劣る韓国軍を圧倒してたちまちソウルを占領、南下を続けた。これに対してアメリカが主導する国連安全保障理事会北朝鮮を非難し、マッカーサー(1880〜1964)を最高司令官とした在日アメリカ軍を中心とする国連軍を組織して(韓国もそれに編入)、朝鮮半島に派遣した。しかし、北朝鮮軍の南下は続き、国連軍を圧倒して釜山付近まで追いつめた。9月になると、国連軍は仁川への強襲上陸に成功してソウルを奪回、補給路を断たれた北朝鮮軍は総崩れとなって敗走し、国連軍は38度線を越えて北朝鮮領内に進攻した。10月、国連軍が中朝国境の鴨緑江に迫ると、中国は自国の安全保障上の危機とみなして人民義勇軍を派遣し、戦争は米中戦争へと転換した。中国軍は人海戦術といわれる人命を顧みない戦術によって国連軍を追い返し、一時はソウルを占領した。しかし、国連軍も反撃して再びソウルを奪回、戦線は38度線で膠着状況に陥った。この膠着状態の打開のために中国本土攻撃を主張したマッカーサーは最高司令官を解任された。その後、1953年4月から停戦会談が進展し、7月に休戦協定が結ばれた。(p.502)

 

『日本とアジアの安全保障体制』

日米安全保障条約以外にも、アメリカは1951年8月にフィリピンと相互防衛条約を結んだのを皮切りに、9月にはアメリカ・オーストラリア・ニュージーランドの太平洋安全保障条約(ANZUS)、53年10月に米韓相互防衛条約、54年12月に米華相互防衛条約を結び、アメリカを中心とするアジアの安全保障網が確立した。さらに55年にはバグダード条約機構(METO)、59年には中央条約機構(CENTO)が成立し安全保障網は中東にも拡大した。(p.503)

 

アメリカ合衆国の「豊かな社会」化』

第二次世界大戦後、ナチス=ドイツによるユダヤ人大量虐殺の暴露の衝撃から、1948年に国連が世界人権宜言を採択するなど、国際的には人種差別への批判が高まっていたが、アメリカ社会の南部では依然として「ジム=クロウ」とよばれる人種隔離制度が維持されていた。このギャップを埋めるべく、最高裁判所は54年に公立学校での人種隔離を違憲とする判決をくだした。翌年には、キング牧師(1929〜68)などを中心とする公民権運動が開始されるのであり、保守の時代といわれた50年代のアメリカ社会でも社会変動の萌芽がみられた。(p.505)

 

『西欧・日本の経済復興』

1948年マーシャル=プラン受け入れのためにヨーロッパ経済協力機構  (OEEC)が西側16カ国によってつくられていた(西ドイツは成立前)。国境を越えて経済協力をおこない、各国の経済的不均衡を是正する試みは、同年のベネルクス関税同盟が端緒となった。ついで50年、フランス外相シューマン(1886〜1963)が石炭と鉄鋼業の共同管理案を発表し、52年にフランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス3国によってヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。この6カ国がローマ条約に調印したことで、ヨーロッパ経済共同体(EEC)が58年に成立した。米ソ両国の核開発に対抗して原子力開発を共同で進めるためのヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)も、ローマ条約により同年成立した。ECSC、EEC、EURATOMは超国家機構であり、各国政府の政策決定を拘束する力をもった。67年にはこの3機構が統一して、上記6ヵ国が参加するヨーロッパ共同体(EC)が誕生した。(p.505)

 

フランスではアルジェリア独立運動に対する入植者による鎮圧運動が過激化し、それは本国における左右両派の対立をも深刻化させた。国論を統一できると目された唯一の候補は、すでに政界を引退していたド=ゴールであった。1958年、彼は大統領権限の強化を条件に政界に復帰すると、第五共和国憲法国民投票によって成立させ、第五共和政の最初の大統領となった(任1959〜69)。彼を支持した保守派の思惑とは裏腹に、ド=ゴールはアルジェリアへの独立承認に踏み切り、62年にアルジェリアは独立した。ド=ゴールはアメリカに対しても独自路線をとり、64年にはその反対にもかかわらず中華人民共和国を承認した。(p.506)

 

ソ連の雪どけと平和共存政策』

フルシチョフは国内改革でも重要な一歩を進めた。56年2月の第20回共産党大会で、スターリンの大テロルを暴露する秘密報告をおこなったのである(スターリン批判)。レーニン時代から生き残った古参党幹部、それに歴史家たちが、この動きを後押ししていた。秘密報告の内容は西側にもれて世界中に衝撃を与え、東欧支配をも揺るがした。(p.507)

 

4月にソ連コミンフォルムを解散していたが、6月にはポーランドポズナニで反ソ暴動が起こった。ソ連による軍事介入が危ぶまれたが、ゴムウカが事態をなんとか収拾した。彼はポーランド共産党の元指導者であったが、51年に民族主義者として逮捕されていた。スターリン死後に釈放されたゴムウカは、ポズナニ暴動のなかで指導者の座に返り咲いた(任1956〜70)  。(p.507)

 

ポーランドと対照的に、ハンガリーでは事態は悲劇的な経緯をたどった。56年10月に首都プダペストで知識人・学生・労働者が改革要求運動を起こすなかで、ハンガリー勤労者党(共産党に相当)内の改革派であるナジ=イムレ(任1953〜55。56)が首相に就任した。ナジは一党独裁の廃止、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立路線を打ち出すにいたり、ソ連軍が侵攻しナジも処刑された。スターリン批判は中ソ関係もそこなった。(p.508)