詳説 世界史研究 第4章 イスラーム文明の発展

イスラーム文明の特徴』

中世ヨーロッパのキリスト教徒は、イスラーム教自体には敵意をもつことが多かったが、十字軍遠征やレコンキスタなどを通じてイスラーム世界の高度な学術水準を知ると、11〜13世紀にかけてイベリア半島のトレドなどにおいて、アラビア語に翻訳されて受け継がれていた古代ギリシアの文献や、アラビア語で著された科学・哲学の著作をつぎつぎとラテン語に翻訳し、これを学びとることによって12世紀ルネサンスを開花させた。イスラーム文明は、それ自体が人類史上の豊かな成果であるだけでなく、哲学や科学などのギリシア文明の成果を受け継ぎ、発展させ、それをヨーロッパ文明へと受け渡したという意味でも、世界史上重要な役割をはたしたのである。(p.147)

 

イスラーム社会と文明』

西アジアイスラーム社会は都市を中心に発展した。アッパース朝の首都バグダードマムルーク朝の首都カイロといった各地の都市には、官僚・軍人商人・職人に加え、ウラマーとよばれるイスラーム諸学をおさめた知識人などが住み、政治の中心である王宮や城砦に加え、信仰と学問・教育の場であるモスクやマドラサ(学院)、および生産と流通の場である市場(アラビア語でスーク、ペルシア語でバーザール)を中心として都市生活が営まれた。(p.147)

 

広大な領域が単一の政権の支配下、あるいは単一の信仰を奉じる共同体の影響下にはいったことによって、諸都市を結ぶ交通路が整備されただけでなく、人・モノ・情報の広域的な行き来も容易となった。こうして成立したネットワークを通じて新しい知識や生産技術が、短期間のうちに遠隔の地へ伝えられた。(p.147)

 

イスラーム文明の発展を支えた技術の1つとして、紙の生産があげられる。紙は、それまで使われていたパビルスや羊皮紙と比べて安価・軽量であり、字句の改変が難しいという利点もあった。その普及は、書いて記録する、書いて伝えるという行為をはるかに容易なものとし、イスラーム文明の発展にはかりしれないほどの影響をおよほした。イスラーム教徒は、タラス河畔の戦い(751)を機に唐軍の捕虜から製紙法を学んだと伝えられており、製紙工場の存在は、8世紀半ばすぎのサマルカンドですでに確認される製紙工場はバグダード・カイロなど多くの都市でみられるようになり、さまざまな銘柄の紙が生産され、流通した。やがてこの技術はイベリア半島シチリア島をへて、13世紀頃ヨーロッパに伝えられた。(p.147)

 

10世紀以後のイスラーム社会では、イスラーム法の表面的な運用によってもたらされるような形式的で外面的な信仰にあきたらず、神への愛と独自の修行を通じて自我を消し去り、神との一体感を得ることを求める神秘主義スーフィズム)  が盛んになった。神秘主義を実践する者をスーフィー(原義は「粗末な羊毛をまとった者」)という。12世紀になると、神との一体化を達成したとされた聖者を中心に、その指導や神へのとりなしを期待する人々によって多くの神秘主義教団(スーフィー教団)が結成され、教団員はムスリム商人などとともに、あるいは自分自身も商人として、アフリカ中国・インド・東南アジアに進出し、各地の習俗を取り入れながらイスラーム教の信仰を広めていった。(p.148)

 

イスラーム文明のおもな担い手は、都市に住む人々とこれらの神秘主義者たちであった。宗教活動や文化活動を積極的に保護し、同時に統制しようとしたカリフやスルタンなどの支配者たち、また、外的内的な動機から善行を積もうとした富裕な商人などが、モスクやマドラサ、病院、キャラヴァンサライ(隊商宿)などを建設し、そうした公共の建物に対し、ワクフとよばれるイスラーム法上の寄進制度を利用して土地や商店の収入を寄進したことも、イスラーム文明の発展を促す要因の1つであった。(p.148)

 

『学問と文化活動』

イスラーム教それ自体とアラブ人の伝統とに起源をたどることができるこうした諸学問を固有の学問とよぶ。このうち、イスラーム法学を中心とするイスラーム諸学を担ったのはウラマーとよばれる知識人学者たちであった。ウラマーは裁判官・教師・礼拝指導者など、社会で指導的な役割をはたすことが多かった。(p.148)

 

自前の宗教的権威を欠くことが多かった権力者にとって、支配下の社会の代表でもあるウラマーと協力関係を結び、自らの支配がイスラーム教の教えにかなう正しいものであるとのお墨つきを得ることは重要でありつづけた。(p.148)

 

イスラーム世界において外来の学問が飛躍的に発達したのは、9世紀初め以後、カリフ・マームーン(位813〜833)が創設したバグダード「知恵の館」(バイト=アルヒクマ)を中心にギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。ギリシアの医学・天文学幾何学・光学・地理学などが吸収され、それらは、臨床や観測・実験によってさらに豊富で正確なものとされた。(p.149)

 

フワーリズミー(780頃〜850頃)らは代数学と三角法を開発し、これらの成果は錬金術や光学で用いられた実験方法とともにヨーロッパに伝えられ、近代科学への道を切り開いた。また、今日では手すさびにつくった「四行詩集(ルバイヤート)」のほうがよく知られる数学者・天文学者のウマル=ハイヤーム (1048〜1131)は、高次方程式の解法を開発し、極めて正確な太陽暦であるジャラーリー暦の作成にかかわった。(p.149)

 

イスラーム教が偶像崇拝を禁じており、宗教建築の装飾に人物像などを描くことがはばかられたことから、唐草文やアラビア文字を図案化したアラベスクが、装飾文様として発達した。(p.150)

詳説 世界史研究 第4章 インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

イスラーム勢力の進出とインド』

ラージプートと総称されるヒンドゥーの諸勢力は分裂抗争しており、イスラーム勢力に対し一致して対抗することができなかった。(p.142)

 

アフガン系のロディー朝を除けば、すべてトルコ系の王朝であった。このうち、ハルジー朝のアラー=ウッディーン(位1296〜1316)は、地租の金納化をはじめとする経済改革を実施し、それらはのちにムガル帝国の統治に受け継がれた。(p.142)

 

デリー=スルタン朝は14世紀半ば頃から弱体化し、インドの各地にヒンドゥー教イスラーム教を奉じる地方政権が成立するようになった。1398年にはティムールによる北インド侵攻にもさらされた。(p.142)

 

イスラーム勢力による支配は、従来の社会構造を温存し、地方行政や徴税を旧来の機構や有力者に任せるというかたちをとらざるをえなかった。こうした状況のなか、人頭税(ジズヤ)を支払うことによって信仰を保障されたヒンドゥー教徒は、カースト制に基づく彼らの社会を温存することができた。(p.143)

 

イスラーム信仰、とくにスーフィーとよばれる神秘主義者たちの信仰と実践には、神への献身を求めるバクティや、苦行を通じて神との一体化を求めるヨーガなどのインド旧来の信仰とも共通性があった。このことは、スーフィーたちによる布教を容易にし、イスラーム教が都市住民やカースト差別に苦しむ下層の人々の間で広まるきっかけとなった。(p.143)

 

『東南アジアの交易とイスラーム化』

8世紀頃には、ペルシア湾岸などの港町出身のアラブ人やイラン人のムスリム商人が、ダウ船を操り、東南アジアから中国沿岸にまで進出し始めた。しかし、彼らが拠点としていた広州の蕃坊(外国人居留地)が黄巣の乱(875〜884)で破壊されるなどしたため、インド洋からの船はマレー半島まで撤退することになった。これと入れ違いに、唐の衰退によって朝貢貿易が不振になったことから、中国人商人も西方との交易にジャンク船で直接参加するようになった。その結果、東南アジアには東西の両方から商人が進出することになった。10世紀後半には、チャンパーや、マラッカ海峡とその周辺の港市国家群を指すと考えられる三仏斉の諸国などが宋に対して朝貢し、また、ムスリム商人が広州や泉州などに蕃坊をつくる一方で、中国人商人も東南アジア各地に居留地をつくるなど、東南アジアと中国との間で活発な交易がみられた。インドでのイスラーム政権の成立以降は、アラブ人・イラン人に狙え、インド人のイスラーム教徒も東南アジアで活動するようになった。(p.143)

 

13世紀後半には元が東南アジアに進出した。陸・海からの3度にわたる遠征にさらされたさトナムの陳朝はこれを退けたが、北方から陸路を通じて攻められたビルマのパガン朝は滅亡した。(p.143)

 

2度にわたって侵攻にさらされたチャンパーは撃退に成功した。ジャワでは侵攻してきた元軍の干渉を排し、マジャパヒト王国  (1293〜1527頃)が成立した。元軍の遠征は、元朝自体が海上交易に積極的であったこともあり、かえって海上交易路の結びつきを強め、交易の活発化を促した。(p.144)

 

マラッカ王国(14世紀末〜1511)は、15世紀前半に、明の鄭和によるインド洋地域への遠征の補給基地となったことから、国際交易都市として大きく発展した。この王国は、明の支援を得て、それまでのタイのアユタヤ朝への従属から脱し、かわって明と朝貢関係を結んだ。その後、明は対外活動を縮小させる方向に転じ、鄭和の遠征もとだえたために、15世紀半ばにタイの勢力がマラッカ支配の回復を試みた。しかし、マラッカの王(スルタン)はイスラーム教を旗印にし、西方のイスラーム商業勢力との関係を強化することでそれを阻止した。このことが、15世紀後半のマラッカ王国の有力化と東南アジア諸島部でのイスラーム教の拡大の契機となった。(p.144)

 

ジャワ島中南部マタラム王国(16世紀末1755)、ジャワ島西部のバンテン王国(バンタム、1526頃〜1813)、スマトラ島北端のアチェ王国(15世紀末〜1912)などが有力で、アジア・ヨーロッパ諸国の商船を迎え、胡根などの香辛料貿易で栄えた。しかし、これらの王国は、17世紀以後、オランダによって徐々に力を奪われていくことになる。(p.145)

 

『アフリカの諸王国とイスラーム化』

ナイル川中流域、現在のスーダンに前10世紀に成立したクシュ王国(前920頃〜後350頃)は、前8世紀には一時エジプトをも支配したが、アッシリアの侵入(前667)を受け後退した。その後、メロエに都をおいた時代(前670頃〜後350頃)には製鉄とエジプトとの通商によって栄え、メロエ文字(未解読)を用いた。しかし、4世紀にエチオピアアクスム王国(紀元前後頃〜12世紀)によって滅ほされた。(p.145)

 

西アフリカのガーナ王国  (7世紀頃〜13世紀半ば頃)は、「人参のように生える」といわれるほど金を豊富に産したので、ムスリム商人がサハラ砂漠の塩床から切り出された岩塩をもたらし、金と交換した。(p.145)

 

ガーナ王国の後に興った「黄金の国」マリ王国(1240〜1473)やソンガイ王国(1464〜1591)の支配階級はイスラーム教徒であった。マリ生国の国王マンサ=ムーサ  (1280頃〜1337)は、数千もの従者をつれてメッカ巡礼に赴き、持参した金を惜しみなく用いたので、途中立ち寄ったマムルーク朝下のカイロでは金の価格が暴落したと伝えられている。またソンガイ王国は西アフリカの隊商都市の大部分を支配し、北アフリカと交易で栄えた。とくに、マリ王国の時期発展していたニジェール川中流の交易都市トンブクトゥは、内陸アフリカにおけるイスラーム教の学間の中心地としても重要な役割はたすようになった。(p.145)

 

ザンベジ川の南では、11世紀頃から、金や象牙の輸出とガラス玉や綿布の輸入によるインド洋交易によって、モノモタパ王国(11〜19世紀)が栄えた。王国は15世紀頃に最盛期を迎えたが、その繁栄ぶりは、インドのガラス玉や中国の陶磁器が出土するジンバブエ(「石の家」の意)の石造遺跡によく示されている。(p.146)

詳説 世界史研究 第4章 イスラーム世界の発展

『東方イスラーム世界』

中央アジア遊牧民であったトルコ人は騎馬戦士として優れていたので、アッバース朝のカリフは、9世紀初め頃から、奴隷として購入した彼らを親衛隊として用いた。奴隷出身のトルコ系軍人は、当初こそカリフに忠実であったが、やがて勢力を増大させ、カリフ権力の低下を招く原因の1つとなった。このような、イスラーム世界の外側からつれてこられた奴隷出身の軍人たちを、一般にマムルーク(「所有される者」の意)とよぶ。(p.135)

 

10世紀には、中央アジアで遊牧生活を続けていたトルコ人の間で、サーマーン朝治下のソグディアナ(マー=ワラー=アンナフル)からの影響や、ムスリム商人やスーフィー神秘主義者)の活動によって、イスラーム教への集団的な改宗が起こった。東トルキスタンを支配していたカラハン朝は、10世紀半ばに集団でイスラーム教に改宗した。また、アラル海付近でも、10世紀後半にトルコ人遊牧民の間でイスラーム教への改宗が起こり、この集団のなかから11世紀前半にセルジューク朝  (1038〜1194)が興った。(p.136)

 

カラハン朝は10世紀末にはサーマーン朝を滅ほしてソグディアナをも支配するようになった。このことは、それまでイラン系を中心としていたこの地の住民が、徐々にトルコ化していく原因となり、この地は西トルキスタンとよばれるようになった。セルジューク朝ガズナ朝を圧迫しながら中央アジアから西に進み、イランを中心にイラク・シリアなどを支配した。また、1071年のマラズギルト(マンジケルト)の戦いでビザンツ帝国に勝利するとアナトリアにも進出し、アナトリアのトルコ化・イスラーム化の流れを決定的なものとした。(p.136)

 

トルコ人たちは、騎馬遊牧民の戦闘力を活かした多方面での征服活動を通じて、民族的な分布地図を塗りかえるだけでなく、イスラーム世界の拡大にも貢献した。(p.136)

 

イラン系の宰相ニザーム=アルムルク(1018〜92)は、ファーティマ朝への対抗策の一環として、バグダードやイスファハーン、ニーシャープールなどの領内の主要都市にニザーミーヤ学院とよばれるマドラサ(学院)を建設し、スンナ派の法学と神学の奨励・育成に努めた。(p.137)

 

セルジューク朝アナトリアやシリアの海岸地帯に進出し、ビザンツ領を圧迫したことは、ビザンツ帝国がヨーロッパのキリスト教国にイスラーム教徒の圧迫に対する救援を求めるきっかけをつくり、十字軍の遠征がおこなわれる原因ともなった。(p.137)

 

モンゴルの侵攻は、1219年に始まるチンギス=ハン自身のホラズム=シャー朝に対する遠征に始まり、58年には、チンギス=ハンの孫で、フビライ=ハンの兄弟であるフラグがバグダードを陥れ、カリフを殺害した。これによりアッバース朝は滅亡し、600年あまり続いたカリフ制度はいったん消滅した。(p.137)

 

バグダードからカイロへ』

サラディンは、スンナ派を奉じてアッバース朝カリフの宗主権を認めるとともに、1087年にはティベリアス湖西方のヒッティーンで十字軍を破り、1099年に第1回十字軍(1096〜99)に奪われていた聖地イェルサレムを88年ぶりに奪回した。これに対し、イングランドリチャード1世獅子心王)らの率いる第3回十字軍(1189〜92)が聖地の再征服をめざしたが成功せず、リチャードはサラディンと和して帰国した。サラディンは武勇に優れていただけでなく。その寛容さ・公正さはヨーロッパでも広く知られ、評価された。(p.138)

 

アイユーブ朝のスルタンも、トルコ人の奴隷を購入してマムルーク軍団を組織したが、やがてその勢力は強大となり、彼らは1250年にアイユーブ朝を倒してエジプト・シリアにマムルーク朝(1250〜1517)を樹立した。第5代スルタンのバイバルス(位1260〜77)は、イラクからシリアに侵入した異教徒のモンゴル軍を60年にアイン=ジャールートの戦いで撃退しただけでなく、アッバース家の一員をカリフとしてカイロで擁立し、さらにメッカ・メディナの両聖都を保護下におさめたことによって、マムルーク朝の権威を高めた。(p.138)

 

歴代のスルタンは、インド・東南アジア産の香辛料やエジプト産の砂糖の取引を中心とする地中海、インド洋交易を国家の統制下において利潤を独占した。首都カイロは、農業生産の停滞、政治的不安定、さらにモンゴルによる破壊によって衰退したイラクバグダードにかわり、イスラーム世界を代表する政治・経済・文化の中心地となった。ファーティマ朝時代のカイロに、シーア派の宣教員養成機関として建設されたアズハル学院は、この時代になるとスンナ派イスラーム教の宗教諸学の研究・教育機関として重要な役割をはたすようになった。(p.139)

 

『西方イスラーム世界の変容』

聖戦を唱えるムラービト朝は、1076年にはセネガル川・ニジェール川上流域のガーナ王国を滅ぼし、同地域ではイスラーム教への改宗が急速に進んだ。また、ムラービト朝イベリア半島にも進出し、現地のイスラーム教徒を従えるとともに、国土回復運動(レコンキスタ)を開始していたキリスト教徒軍を破った。(p.140)

 

イスラーム世界の経済と国家』

各地のムスリム商人は、街道上や都市におかれた宿泊施設・倉庫であるキャラヴァンサライ(隊商宿)に支えられた陸上交易に携わるだけでなく、モンスーンを利用したダウ船での航海による「海の道」での交易にも進出し、中国・インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラーム教の伝播にも大きく貢献した。アイユーブ朝マムルーク朝の時代には、スルタンや有力なマムルーク軍人の保護のもと、カーリミー商人とよばれるムスリム商人のグループが活躍した。彼らは、イエメンの港町アデンでインド商人から買いつけた東南アジア・インド産の香辛料(胡椒・ナツメグ・ショウガなど)や中国産の絹織物・陶磁器などを紅海から上エジプトへ運び、さらにナイル川アレクサンドリアまでくだってヴェネツィアジェノヴァなどのイタリア商人に売り渡した。(p.140)

 

こうした富裕な商人たちは、イスラーム教が奨励する富の社会還元をおこなうために、交易によって得た利益をモスク(礼拝所)やマドラサなどの建設にそそぎ、イスラーム文化の保護者としても重要な役割をはたした。(p.141)

 

ウマイヤ朝アッバース朝の政府は、都市や農村から貨幣と現物の両方で租税を徴収し、官僚や軍人には予算に基づいてアターとよばれる現金の俸給を支払った。アッバース朝においては、カリフの力が強く、官僚制が整っている間は、この体制を維持することができた。しかし9世紀半ば以後、マムルーク軍人が台頭し、各地に独立王朝が樹立されるようになると、カリフ権は衰え、国庫収入はしだいに減少していった。10世紀半ばにバグダードに入城したブワイフ朝は、まもなく地域ごとの徴税権を軍人に与え、各人の俸給に見合う金額を、直接、農民や都市民から徴収させることにした。これをイクター制という。イクターとは、国家から授与された分与地、あるいはその土地からの徴税権を意味する。イクターを保有する軍人はその見返りに軍備を維持し、召集に応じて参戦する義務を負っていた。(p.141)

 

イクター制のもとでは、イクター保有者とイクターとされた土地との間に強い結びつきが生じることが少なくなく、このことはしばしば、力の弱った王朝がいくつもの政治勢力に分裂してしまう原因となった。(p.141)

 

 

詳説 世界史研究 第4章 イスラーム世界の形成

イスラーム教の誕生』

6世紀後半になると、ササン朝ビザンツ帝国とが長期にわたって戦争状態を続けたために、東西を結ぶ交易路(「オアシスの道」)は両国の境界でとだえ、ビザンツ帝国の国力低下とともに、その支配していた紅海貿易も衰えた。そのため「オアシスの道」や「海の道」によって運ばれてきた絹織物・陶磁器・香辛料などの中国やインドの産品は、いずれも半島西部のヒジャーズ地方を経由して運ばれるようになり、同地方の交易都市メッカの商人たちは、この国際的な中継貿易を独占して大きな利益をあげるようになった。(p.130)

 

偶像崇拝を攻撃し、富の独占に反対するムハンマドは、メッカの大商人による激しい迫害を受けた。ムハンマドが安定した活動基盤を築いたのは、部族対立に苦しむ現地住民からの招きを受け、622年に少数の信者とともにヤスリブ(メディナ)に移住し、イスラーム教徒(ムスリム)の共同体(ウンマ)を建設してからのことであった。この移住をヒジュラ(聖遷)という。のちに整備されたイスラーム暦(ヒジュラ暦)は、純粋な太陰暦であるが、ヒジュラがおこなわれた年の年初(西暦622年7月16日)を紀元元年1月1日としている。(p.130)

 

イスラーム世界の成立』

ムハンマドの死後、メディナイスラーム教徒は、共同体の指導者としてクライシュ族出身のアブー=バクル(位632〜64)をカリフ(後継者の意。アラビア語では「ハリーファ」で、「カリフ」はそのヨーッバでのなまり)に選出した。アブー=バクルは信仰のための戦いであるジハード(聖戦)を通じて、ムハンマドの死をきっかけに離反した多くのアラブ諸部族を平定し再び従えるとともに、シリアやイラク・イランに向けて大規模な征服活動を開始した。(p.131)

 

東方ではササン朝の遺領であるイラクとイランが、西方ではビザンツ帝国から奪ったシリアとエジプトが、ともにメディナのカリフ政権の支配に服するようになった。これらの征服地には軍営都市(ミスル)が建設され、多くのアラブ人が家族をともなって移住した。(p.132)

 

アリーが暗殺されると、彼と敵対していたシリア総督のムアーウィヤ  (位661〜680)がダマスクスウマイヤ朝(661〜750)を開き、カリフ位の世襲を開始した。この事態は、スンナ派の多くからもカリフ位の堕落ととらえられた。ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアのソグディアナとインド北西部、西方はベルベル人の居住する北アフリカを征服し、やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ほした(711)。(p.132)

 

国家財政の基礎は地租(ハラージュ)  と人頭税(ジズヤ)であったが、これらは征服地の先住民だけに課せられ、理論上はイスラーム教への改宗によって免除されるはずであったが、実際には徴収が続けられた。イスラーム教が神の啓示の書と認める啓典をもち、当初からイスラーム教徒に準じる啓典の民とみなされたキリスト教徒やユダヤ教徒また、旧ササン朝領で多数を占めたゾロアスター教徒などは、ズィンミー  (庇護民)として貢納を条件に信仰の自由を認められていた。(p.132)

 

イスラーム帝国の形成』

アッバース家を支持する勢カはイラン東部のホラーサーンで挙兵、ウマイヤ朝の軍隊を追って西進し、750年に、アブー=アルアッバース(位750〜754)がイラクでカリフとして即位し、アッバース朝(750〜1258)が開かれた。アッバース朝の基礎を築いたのは、第2代カリフのマンスール(位754〜775)であった。彼は、宰相(ワズィール)が統率する官僚機構や地方との情報伝達のための駅伝制度を整備し、王朝樹立に功のあったホラーサーン軍を主力とする軍隊を整えるなど、新帝国の基礎を固めた。また、肥沃なイラク平原の中心に位置するティグリス河畔の地に、円形の首都バグダードを造営した。アッバース朝による広域的な支配と安定した交通路に支えられたバグダードは、「オアシスの道」と「海の道」を通じた交易の結節点として繁栄していった。(p.133)

 

アッバース朝時代には、従来のアラブ人に加え、イラン人を中心とする新改宗者も政府の契職に就けられるようになった。こうして、ウマイヤ朝時代までのアラブ人の特権はしだいに大われ、イスラーム教徒であれば、アラブ人以外でも人頭税が課せられることはなくなり、またアラブ人でも、征服地に土地をもつ場合には地租が課せられるようになった。アラビア語も、アラブ人の言葉であるのに加え、多民族からなるイスラーム教徒の間の共通語として定着していった。ウマイヤ朝時代までにみられたような民族による差別は廃止され、カリフ、おりから体系進んでいたイスラーム法(シャリーア)  に対してより忠実に実施されるようになった。(p.133)

 

このように、ウマイヤ朝からアッパース朝への交替は、イスラーム教徒であるアラブ人が異教徒である他民族を支配することを前提とした体制から、民族よりも宗数に力点がおかれた体制への変革ということができる。ウマイヤ朝時代は「アラブ帝国」、アッバース朝時代は「イスラーム帝国」と性格づけられるのはこのためである。(p.133)

 

イスラーム帝国の政治的分裂』

アッパース朝が建てられると、ウマイヤ家のアブド=アッラフマーン(位756〜788)はイベリア半島に逃れ、756年コルドバを首都とする後ウマイヤ朝(756〜1031)を建てた。(p.134)

 

後ウマイヤ朝はアブド=アッラフマーン3世(位912〜961)の時代に最盛期を迎え、北アフリカ西半をも支配下におさめた彼は、それまでのアミール  (将軍)という称号にかえてカリフの称号を用いた。(p.134)

 

アッバース朝は、ハールーン=アッラシード  (位786〜809)の治世中に黄金時代を迎え、バグダードの人口は100万にも達したとされる。しかし、彼の死後ほどなくして、帝国内のエジプトやイランで独立王朝が建てられるようになり、カリフの実権がおよぶ範囲はしだいに縮小した。イランのターヒル朝(821〜873)、エジプトのトゥールーン朝(868〜905)、ソグディアナ(アラブ征服後はマー=ワラー=アンナフルとよばれた)のサーマーン朝(875〜999)など、これらの王朝の多くはアッバース朝の名目的な宗主権を認めており、アミールとしてカリフの委任を受けるかたちで統治をおこなっていた。(p.134)

 

10世紀の初めには、シーア派の一派であるイスマーイール派を奉じ、第4代カリフのアリーとムハンマドの娘ファーティマとの子孫を称するカリフに率いられたファーティマ朝  (909〜1171)が、北アフリカに興った。アッバース朝カリフの振威を正面から否定するこの政権の出現により、後ウマイヤ朝とあわせ、3人のカリフが並立することとなった。(p.134)

 

ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、ナイル川の東岸に首都カイロを造営した。以後、アッバース朝の弱体化などを背景としてバグダードが衰退するとその繁栄はカイロに移っていくこととなる。(p.135)

 

アッバース朝においては、イランの新興の独立王朝であった傭兵出身のブワイフ朝(932〜1062)が、946年にカリフの都バグダードに入城した。ブワイフ朝の君主はアッバース朝を滅ぼさず、カリフから大アミール(将軍たちの第一人者)に任じられることにより統治をおこなった。(p.135)

 

カリフを保護下におき、彼らの委任を受けたというかたちで統治をおこなう体制は、後続のセルジューク朝によっても続けられた。しかし、ブワイフ朝バグダード入城は、帝国としてのアッバース朝の終焉を画するものであった。(p.135)

詳説 世界史研究 第3章 東アジア文化圏の形成

『隋の統一』

文帝は政治の刷新を印象づけるため北周長安城の近くに新たに大興城(のちの唐の長安城)を建設して遷都した。そして589年には弱体化していた南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。(p.116)

 

文帝が財政・軍事の基盤としたのは北朝以来の均田制および府兵制である。文帝は均田制を改革し、官位に応じて一定額の土地の世襲を認める官人永業田の制度を立てた。のちに子の煬帝(位604〜618)はさらに改革を加えて役を庸で代納させる制度をつくるとともに、均田制と租調庸制の対象から婦人と奴婢を除いて丁男(成年男性)に一本化した。府兵制も改革し、不要となった地方の軍府を廃止し、府兵と農民の戸籍を同じにした(兵農一致)。また九品中正を廃止して、科目試験によって人材を抜擢する制度(科挙)を始めた。これらは総じて魏晋南北朝時代地方分権的システムを中央集権的なシステムへと転換するものであった。(p.117)

 

さらに場帝は、東都洛陽城の建設を始めるとともに、文帝が始めた運河の建設を推し進め、短期間の間に北は琢郡(北京市付近)から南は余杭(杭州)にまで通じる大運河を完成させた。(p.117)

 

場帝は612年・613年・614年と3度の高句麗遠征の軍を起こしたが、高句麗の頑強な抵抗に遭い、国内の反乱や突厩の離反もあって失敗した。(p.117)

 

『唐の建国と発展』

高祖(李淵)の政治の方針はおおむね隋の文帝の時代に戻ることであって、そうした方針のもとで律令を施行し、三省六部制とよばれる中央官制や均田制を整備した。(p.117)

 

太宗は630年、東突厥の弱体化に乗じてこれを滅ぼすと、西域や北方の君長から「天可汗」の称号を贈られた。(p.118)

 

太宗からつぎの高宗(位649〜683)の時代にかけて唐は空前の大帝国へと発展した。西方では太宗が今日のトルファンにあった高昌国を滅ぼして唐の西州とし、高宗は西突厥を滅亡させてアラル海以西のオアシス諸都市を影響下におさめた。また東方では新羅と協力して高句麗百済を滅ほし、唐の領域は最大の版図に達した。(p.118)

 

唐は辺境の諸民族に対しては、それぞれの民族の首長を都督府や州の長官に任じて間接的に統治する羈縻政策をおこなった。版図の拡大にしたがって800前後の羈縻州がおかれ、これらの州を監督するために六都護府(安西g北庭・安北・単于・安東・安南)が設置された。(p.118)

 

律令体制』

律は刑法、令は行政に関する規定であり、格と式はそれを補うもので、格は補足改正、式は施行細則である。唐代には格と式の整備も進んで律・令・格式と並び称されるようになった。(p.118)

 

中央官庁はおもに三省・六部・九寺・一台から成る。三省は中書省門下省尚書省を指す。中書省詔勅(皇帝が出す命令)を起草することをおもな仕事とし、皇帝の意思を文書化する機関であった。門下省中書省が発する詔勅を審査する役割をはたし、必要な場合は修正して差し戻す権限(封駁)が認められていた。このような門下省の権限には六朝時代の貴族制の影響が認められる。尚書省詔勅を実施する機関であり、吏・戸・礼・兵・刑・工の六部からなっていた。(p.118)

 

九寺(寺は本来役所の意味)は漢代から続く行政機関であるが、唐代には六部のもとで行政の実務を担当する機関となった。例えば、大理寺は検察と裁判を担当し、鴻臚寺は外国使節の接待や葬儀などを担当する。一台とは御史台を指し、官僚の不法行為を監察告発する。以上の官僚機構を統括するものとして幸宰相がおかれた。宰相は当初は門下・中書・尚書の長官各2名の計6名がなり、門下省で会議がおこなわれていた。しかし、のちに会議の場は中書省に移り、尚書省の長官はとくに任命された場合にのみ参加するようになるなど皇帝に近い中書省の地位が高くなっいった。地方行政は隋を継承して州県制を基本とし、全国におよそ350の州と1560の県があった。(p.118)

 

均田制は北魏に始まる土地制度で、国家が土地の所有額を管理することで農民の戸をなるべく一定の規模にそろえようとする政策である。唐では丁男に対し、ロ分田を80畝、永業田を20畝、計100畝(約5.5ha)を給付する規定になっており、永業田は世襲が許された。(p.119)

 

官位や爵位をもつ者は地位に応じて官人永業田を与えられ、在職中の者には職事田も支給されたので、唐代の均田制は身分的な大土地所有制度としての意味ももっていた。(p.119)

 

府兵制は西魏に始まる軍事制度である。それまで地方長官のもとにおかれていた軍府を皇帝や皇太子の警固にあたる都の禁衛組織に分属させて、全国の軍府が中央に直属する仕組みにしたものである。唐ではこの軍府を折衝府といい、全国に600ほどがおかれ、兵力の総数は50万ほどに達したが、その約3分の2は長安や洛陽の周辺におかれた。(p.120)

 

『東アジア文明圏の形成』

突厥は630年に崩壊して唐に服属していたが、682年に羈縻支配から脱し突厥第二可汗国を建てた。自立した突厥(552〜745)は唐と父子の関係を結んだ。8世紀の中頃には突厥にかわってウイグル帝国(744〜840)が興り強勢を誇った。ウイグル帝国は表向きは唐の臣下の立場をとったが、実際には絹馬交易を通じて毎年唐から莫大な利益を得た。都城を建てて定住生活を始め、中国との交易に活躍していたソグド人を介してマニ教を受け入れ信奉した。ウイグルは9世紀前半にキルギスの攻撃を受けて滅びたが、一部は西に移動して甘粛地方や天山地方で王国を建てた。突厥ウイグルはソグド文字から発展させた突厥文字やウイグル文字を生み出し、北アジアの遊牧社会に独自の文字文化を築いた(p.120)

 

吐蕃 (7〜9世紀)は7世紀初めのソンツェン=ガンポ(位629〜649)の時代にチベット高原を統一する王国を築き、7世紀の後半には西域に進出してオアシス地域の覇権を争うまでになった。吐蕃は唐から文成公主や金城公主といった王女を迎えて婚姻関係を結び唐の文化を導入したが、一方でインドからも仏教や文字文化を取り入れるなどして独自のチベット仏教チベット文字を生み出した。(p.120)

 

8世紀の前半には唐と吐蕃の影響を受けながら現在の雲南省の大理・昆明の地域にチベットビルマ系民族の南詔(738〜902)が起こった。10世紀の初めには滅びたが、南詔の繁栄はのちの大理国の建国に繋がった。(p.121)

 

朝鮮では6世紀に新羅が勢力を伸ばしたが、なお高句麗百済と厳しい戦いをおこなっていた。新羅は金春秋を高句麗と日本に派遣して同盟を探ったが、最後に唐との同盟を選んだ。金春秋は即位して武烈王(位654〜661)となり、唐と連合して百済を滅ぼした。唐が高句麗を滅ほしたのちは、朝鮮の支配をめぐって唐と戦争になるが、唐は突厥の再興や吐蕃との戦争に力をそがれて撤退し、新羅朝鮮半島の領有を認めた。以後は唐の冊封体制下で緊密な交流を続け、唐の文化や仏教を導入した。新羅百済高句麗の人々を支配下におさめる過程で王都の金城(慶州)に骨品制とよばれる身分制をつくった。仏教が栄え、都の内外に仏国寺など多くの寺院が建てられた。(p.121)

 

高句麗の故地では大酢栄(位698〜719)が渤海(698〜926)を建国し、唐から冊封を受けた。渤海は唐に倣って三省六部制を導入し、全国に5つの都城(五京)を築いた。なかでも上京竜泉府は日本の平城京と同じく唐の長安城の都城制を導入した都城であった。(p.122)

 

『唐代の社会と文化』

唐代の文化をリードしていたのは貴族であって、唐の文化は貴族文化といえる。(p.122)

 

儒学では孔穎達(574〜648)が「五経正義」を編纂して経典の解釈を定め、科挙の基準にもなった。(p.122)

 

唐代文化のもう1つの特徴は、東西交易の発達によってペルシア系の文化が大量にはいってきたことで、その中心地はシルク=ロードと結ばれた長安であった。(p.122)

 

唐の後半になると、シルク=ロードにかわって海上交易が盛んになり、これと結びついた揚州や広州が栄えた。インドシナ半島チャンパーや真臘(カンボジア)、島峡部のシュリーヴィジャヤ朝やシャイレンドラ朝の朝貢使が来航し、ペルシアやアラビアからムスリム商人が多く訪れるようになった。広州には、皇帝から派遣されて交易を監督する市舶司がおかれ、唐末の外国人居住者は12万にも達した。(p.123)

 

律令体制の転換と唐の動揺』

武后は洛陽を都とし、長安の旧勢力とは距離をおき、科挙出身者を宰相に登用するなどして科挙官僚の進出に道を開いた。(p.124)

 

武后は晩年退位を迫られ、中宗が復位(705〜710)して国号は唐に戻った。しかし、今度は中宗の皇后の韋后が武氏一族と結んで権力を握ろうとして皇室の李氏と対立した(武章の禍)。(p.124)

 

太宗の時代、1230万くらいであった唐の人口は、玄宗の時代にはいると4000万を超えるようになり、治世の終わり頃の755年には5300万近くに達した。こうした急激な社会の変化のなかで、固定的な社会を前提としていた律令体制は十分に機能しなくなった。そこで玄宗の時代にはこうした社会の変化に対応するための新しい施策が打ち出されていった。(p.124)

 

軍事の面でも府兵制が行き詰まり、増大する兵員の需要に応ずるため募兵制がおこなわれるようになぅた。(p.125)

 

軍事の方面では、辺境の軍鎮を管理するために10の節度使がおかれた。このうち長城の外の安西・北庭平盧の3節度使には武官や異民族出身の蕃将が就き、長城以南の7節度使には文官が就く慣例であった。軍鎮の兵士は職業兵であり、軍鎮はまた兵士の居住地でもあったため、節度使には軍事・民政・財政の権限が一手に与えられた。(p.125)

 

安禄山は755年に蜂起して洛陽・長安をおとし、翌年皇帝の位に就いて大燕国を建てた。しかし、安禄山は757年に次男に殺され、その後を仲間の史思明(?〜761)が受け継いだが、史思明も長男に殺された。唐はウイグルの支援を受けてなんとか反乱をおさめることができたが、この間玄宗長安を放棄して蜀(四川)に逃れ、楊貴妃はその途中で殺された。安史の乱(755〜763)は、玄宗の権威を失墜させただけではなく、唐帝国の中央集権支配にも壊滅的な打撃を与え、反乱の前年に約891万4709戸、5291万9309人あった人口は、反乱後には293万3125戸、1692万386人にまで落ち込み、以後5000万人を回復することはなかった。(p.125)

 

安史の乱以後の唐の弱体化は明らかで、羈縻政策は破綻し、オアシス地域からは撤退し、ウイグル吐蕃南詔への対応に苦慮するようになった。内地にも直接の統治がおよばない地域が増え、節度使に軍事・財政・民政の権力を与えて地方の統治を委ねるようになった。これを藩鎮という。(p.126)

 

唐は増大する軍事費を賄うため、定額制の租調庸制を諦め、780年に楊炎の両税法を採用した。両税法とは、まず国が予算を立て、その予算に応じた両税額を州県に戸数に応じて割り当て、州県が各戸にその資産に応じて割り当てて、夏と秋の2回に分けて徴収する税法である。このように人頭税から戸の資産(おもに土地)を対象とする課税に移ったこと、定額制から予算制へと切りかわったことは、個別人身支配を基盤とした秦漢以来の古代帝国のあり方を根本から変えるものとなった。(p.126)

 

租調庸制から両税法への転換は、農民にとってみれば租税負担の増大を意味した。しかも両税法は銭納を原則としたので、農民は銭を入手するために農産物を安く売り払わねばならなかった。唐は両税と並ぶもう1つの重要な財源として塩の専売をおこなったが、原価の10倍にまで利益を上乗せされた塩を購入するにも銭が必要であった。(p.126)

 

塩の密売商人であった黄巣(?〜884)が起こした反乱(黄巣の乱、875〜884)によって洛陽や長安は陥落した。唐は唐側に寝返った黄巣の武将の朱全忠(852〜912)と西突厥の流れを汲む沙陀族の節度使李克用の力によってなんとか平定するが、907年朱全忠によって滅ぼされた。(p.126)

 

『五代の分裂時代』

朱全忠後梁(907〜923)を建てて運河沿いの汴州(開封)を都とした。華北では50年ほどの間に、後梁後唐後晋後漢・後周の5つの王朝が交替した。このうち後唐は李克用の子が建国し、後晋後漢も沙陀族の節度使が建国したものである。この頃には契丹(遼)が大きな勢力をもつようになり、後晋は燕雲十六州と引き換えに遼の支援のもとで建てられた。その他の地域でも10あまりの国が興亡を繰り返した。この時代とくに華南の経済の発展はめざましく、今日の省のまとまりに通じるような地域性のある地方政権が分立した。この時代を五代十国(907〜979)という。(p.126)

 

唐が崩壊して武人政権の時代にはいったことで旧来の貴族は没落していった。一方で、農業の生産力が発達して貴族的な特権に頼らなくてもすむ新興の地主層が成長した。奴婢などの賤民に耕作させる荘園は姿を消し、佃戸とよばれる小作人を雇っておこなう経営が一般化した。(p.126)

 

唐の崩壊は周辺の諸国にも大きな影響を与え、唐の冊封国であった南詔渤海新羅などは10世紀の前半にあいついで滅び、日本でもまた律令体制の時代は終わりを告げた。(p.126)

 

詳説 世界史研究 第3章 北方民族の活動と中国の分裂

『中華世界の再編』

後漢王朝が衰退する一方で、力を増していったのが各地の豪族勢力であった。彼らは流浪の人々を農奴的な雇われ人である「佃客」や「衣食客」としたり、私的な武装集団の兵士「部曲」として吸収し勢力を伸ばした。こうして力をもった豪族勢力のなかから地域社会のリーダーがあらわれる。(p.109)

 

曹操(155〜220)は後漢献帝を迎え入れると、最大のライバルであった衰紹を破って覇者となり、華北を統一する。しかし、208年に赤壁の戦い孫権劉備の連合軍に敗れ天下を統一することはできなかった。赤壁の勝利によって孫権は長江下流の支配を盤石にし、劉備はさらに長江上流の四川にはいって開発を進めた。曹操後漢の権威を利用するため、自らは魏王にとどまり、皇帝にはならなかったが、220年、曹操が死ぬと子の曹丕(文帝、位220〜226)は後漢献帝(位190〜220)から禅譲を受け、魏王朝(220〜265)を創設した。(p.110)

 

『北方民族の動向』

魏は263年に蜀を滅ぼすが、その2年後には将軍司馬懿の孫である司馬炎武帝、位265〜290)によって国を奪われる。この王朝を晋といい。15年後の280年には呉を滅ぼし中国を再統一した。ところが、それからわずか20年ほどで皇室諸王による八王の乱(290〜306)が起こり、晋は内乱状態となる。(p.110)

 

中国内地の匈奴の勢力をまとめる権限を与えられた匈奴劉淵は、自立して漢王を称した。匈奴の漢は晋と戦い、311年には洛陽に侵攻し(永嘉の乱)、316年には長安に侵攻して晋の皇帝をとらえた。こうして晋はいったん滅亡するが、317年に皇族の司馬睿(元帝、位317〜322)が建康(現在の南京)において晋王朝を再建する。洛陽・長安に都がある晋を西晋(265〜316)といい、建康に都がある晋を東晋(317〜420)という。(p.110)

 

南北朝時代

前秦滅亡後に代を復興した鮮卑の拓跋部の王である珪は、まもなく魏王と改称し、後燕鮮卑)を破ると、398年都を盛楽(内モンゴル自治区ホリンゴル県)から平城(山西省大同市)に移して皇帝に即位した。こうして北魏(386〜534)の初代皇帝となった道武帝は、部族解散をおこない、皇帝が部族民を直接支配するようにした。道武帝の孫の太武帝(位423〜452)は即位すると自ら積極的に遠征をおこない、わずか15年ほどの間に、北には柔然を追い払い、東には北燕(漢族)、西には夏(匈奴)、そして439年には河西回廊を支配する北涼匈奴)を滅ほして華北の敵対勢力を一掃した。(p.111)

 

北魏の文明太后は幼い孝文帝(位499)にかわって摂政し、三長制と均田制を創設して豪族支配下の民衆を戸籍につけて土地を与え、兵役徴発や租税収入の基盤を拡充した。孝文帝は親政を開始すると、朝廷に残る鮮卑の遺制を大胆に中国的に改める漢化政策を断行し、494年には洛陽へ遷都して南伐を繰り返した。(p.111)

 

524年に起こった六鎮の乱は北魏東魏西魏に分裂させ、その余波は548年の侯景の乱となって梁をも崩壊に導いた。6世紀の後半には、東魏 (534 550)を継いだ北斉(550〜577)と西魏 (535〜556)を継いだ北周(556〜581)、そして江南の陳(557〜589)が鼎立する状況となったが、577年には北周北斉を滅ぼした。このときすでに四川や長江以北の地も北朝の領土となっており、陳の支配する地域はごく狭いものとなっていた。581年に隋は北周に取って代わり、その8年後に陳は隋に滅ぼされた。(p.112)

 

『社会経済の変化』

曹操は編戸斉民(人民をみな等しく扱う考え)を理想とした漢帝国の建前を捨て、大胆にのちの時代の先例となる制度をつくった。兵民一致の原則を捨て特定の家が父から子へと世襲的に兵役を担う兵戸制を創設したこと、人頭税を基本とした徴税制度をやめて戸の資産に応じて税を徴収する戸調制へ移行したこと、豪族の荘園に対抗し流民を収容するための特殊な屯田制(典農部屯田)を創設したこと、たとえ徳行がなくても才能がある者に出仕をよびかけた求賢令を発したことなどである。(p.112)

 

西晋は親の屯田制の後を受けて占田・課田法を設けたが、どこまで実施されたかは不明である。(p.112)

 

北魏は三長制と均田制を施行して豪族支配下の民を国の戸籍につけることに成功し、以後の北朝の諸王朝に継承された。また東晋以降、州一郡一県の民政系統とは別に、都督府とよばれる軍政系統の地方行政制度が広まっていった。(p.112)

 

後漢末、曹丕は各地の優れた人材を登用するため、九品中正の制度を始めた。それまで秩石(俸禄の石高)によってあらわされていた官僚のランクは、これ以降基本的に九品から一品までの九等に分けられることになった。各郡には地元出身者から選ばれた中正官がおかれ、人物の推挙をおこなう。その際に中正は将来性をはかって九品にランクづけする。人事を司る吏部はこれを参考にして、例えば、三品に昇進する将来性を見込まれた人物であれば初任官を七品の官につけてスタートさせるのである。この九品中正の制度は、当初は各地方の才能や徳行のある人物を推薦させる制度として始まったが、魏の後期には司馬懿によって州に大中正がおかれて、中央の高官の意向が反映されやすくなった。このため個人の才能や徳行よりも家柄が重視されるようになり、何世代にもわたって高官を輩出する貴族 (門閥貴族) とよばれる同族集団を生み出すシステムへと変貌していった。(p.112)

 

魏晋南北朝の文化』

老荘思想道家思想)や「易経」に基づいて真理の探究をおこなう玄学が起こり、そうした価値観に基づきながら芸術談義や人物評価をおこなう清談が流行した。(p.113)

 

仏教はすでに前漢末から後漢前半には中国に伝わっていたようであり、後漢時代には仏典の翻訳が始まった。(p.113)

 

仏教伝来のもっとも大きなルートは、インドから中央アジアを通って華北にはいってくるルートであり、4〜5世紀の遊牧民族が多く暮す華北社会において仏教は社会に広く浸透した。このルートで仏教を伝えた人物としては、クチャ(亀益)から洛陽にはいって後趙に仕え中国仏教の基礎を開いた仏図澄(?〜348)や、長安にはいり前奏・後涼後秦に仕え仏典の翻訳をした鳩摩羅什(クマラジーヴァ、344〜413)が有名である。(p.114)

 

もう1つは、チベットをへてはいる陸のルートや、東南アジアや中国の南の海岸沿いにはいる海のルートであり、東晋の僧法顕(337頃〜422頃)は行きは陸路を使い、帰りは海路を使ってグプタ朝のチャンドラグプタ2世を訪ね、その旅行記を『仏国記 』に著した。(p.114)

 

外来の宗教である仏教の浸透に対しては、廃仏とよばれる過激な排斥運動も起こった。北魏の第3代皇帝太武帝漢人貴族の崔浩の勧めに応じて冠謙之(365頃〜448)の新天師道を取り入れて道教を国教とし、中国史上最初の大規模な仏教弾圧をおこなった。しかし太武帝の死後仏教は復活し、都の平城の近くに雲岡石窟がつくられた。孝文帝の洛陽遷都後には洛陽の近くに竜門石窟がつくられた。竜門石窟は唐代に入って則天武后武則天)の支援も受けてきらに大きな発展を遂げた。また、南朝では貴族や僧侶を中心に仏教の哲理の探究や中国文化との比較がおこなわれた。ついに梁の武帝は仏教を崇敬して3度の捨身をおこなうなど、王侯貴族を中心とした仏教文化が花開いた。(p.114)

 

中国の民間信仰である道教も仏教の影響を受けて発展した。神仙思想ともかかわりのある道教はもともと決まった教祖や教説をもたない宗教であったが、老子が教祖とされ、仏教の影響を受けつつ道教教典や道像(仏教の影響を受けた道教の神像)がつくられ始める。北魏寇謙之や梁の陶弘景によって道教経典の整理と体系化もおこなわれ、道教は仏教に並ぶ宗教としての体裁を整えた。(p.115)

 

『朝鮮と日本の国家形成』

前1世紀頃には鴨緑江中流高句麗(前1世紀頃〜668)が勢力を拡大し、後漢王朝から王の称号を認められるまでになった。3世紀には魏の攻撃を受けるものの、のちに勢力を回復し313年には楽浪郡を滅ぼした高句麗はさらに中国の遼東地域への進出をはかり、華北の五胡政権と争うが、のちに服属して冊封を受け、前秦から仏教を導入するなどした。(p.115)

 

一方、『三国志 』の「親書」東夷伝の記事によれば、朝鮮の南部には馬韓50余国と辰韓弁韓それぞれ12国が分立していた。しかし、4世紀には馬韓の小国から発展した百済(4世紀半ば〜660)と辰韓の小国から発展した新羅(4世紀半ば〜935)が勢力を拡大し、6世紀には新羅が日本とのかかわりが深い加耶加羅)諸国を併合し、高句麗百済新羅で三つ巴の争いを展開する三国時代にはいった。(p.115)

 

高句麗は4世紀末から5世紀初めの広開土王(好太王、位391 412)の時代に領土を拡大し、百済新羅を圧迫した。(p.116)

 

古代の東アジアの国際関係は朝貢冊封の関係で成り立っていた。朝貢とは中国の皇帝に貢物を献じて関係を結ぶことである。中国の皇帝はこれに対して国賜とよばれる返礼をおこなう。朝貢の目的は多様であり、たんなる交易や交流の関係であることもある。両者の政治的な思惑が一致した場合には冊封がおこなわれる。冊封とは中国の皇帝から王なとの爵位や官職が与えられ、特定の地域の世襲による支配が認められ、ときには直接的に援助されることである。そのかわり冊封を受けた国は、中国の天下にはいり、皇帝を尊重し、中国の年号や法律を用いるのが原則であった。このような国際関係を冊封体制とよぶ。(p.116)